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日本人戦争捕虜第一号(4)

 1943年1月8日、南をはじめ、戦争捕虜たちは、ヘイ収容所から400キロ東にあるカウラ戦争捕虜収容所へ移動させられた。戦争捕虜が増えたため、ヘイ収容所を民間人の独身の男性専門の収容所にし、カウラに戦争捕虜専用の収容所を作ったのである。民間人の家族専用の収容所はビクトリア州のシェパトンの近くのタチュラにあった。カウラは、農業地帯で、周りは見渡す限り畑の続く、のどかな村である。しかし、収容所の周りには鉄条網が張りめぐされ、監視塔もあちらこちらに立ち、物々しい様相を呈していた。
 カウラ収容所は4つのセクションに分かれ、二つのセクションにはイタリア人戦争捕虜が収容され、一つは日本人戦争捕虜、そしてあとの一つのセクションに朝鮮人、台湾人、日本人士官が、収容された。その頃、日本は朝鮮も台湾も植民地にしていたので、朝鮮人も台湾人も、日本人とみなされたのである。捕虜となって尋問された時、南忠男軍曹と名乗っていたので、南は下士官用の施設に入れられた。
 南はこの収容所で、英語がうまいというので、司令部との交渉を頼まれることが多く、ここでも頭角を現していった。同胞の者から、パンよりもご飯が食べたいと言う声があがると、南は司令官と交渉して、ご飯も食べられるようにしてもらった。
 カウラでも、パドックのくい打ちや運搬用道路の補修作業を1日8時間して、わずかの賃金をもらい、それで売店から、日用品やたばこ、菓子を買った。
 暇な時は、皆野球をしたりして楽しんでいたが、南は野球が下手で、皆に加わることはなかった。南は子供の時から動物好きで、ひよこを育てたり、アヒルを飼っていた。だから、野良猫を見るとほっておけなかったようで、収容所で5匹ほど飼い始め、それぞれの首に「南」と書かれた札をつけ、残飯などを食べさせて、可愛がった。
 カウラでは、飢えることもなく、暴力を振るわれることもなく、平和に見える毎日を送っていたが、南の脱走したいと言う願望は一向に収まらなかった。新たに入所してきた日本兵には必ず、「いつか決起をして、脱走しよう」と誘いの言葉をかけるのを忘れなかった。
 新聞を熱心に読むことを怠らなかった南は、1943年3月15日にニュージーランドにあった日本兵捕虜収容所で暴動が起こったことを知った。その暴動はすぐに鎮圧されたが、その記事を読んで、南は心の中で、いつか自分たちも暴動を起こそうと言う決意を新たにした。

著作権所有者:久保田満里子


 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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