私のヒロシマ(最終回)
更新日: 2025-03-22
あとで、プロのジャーナリストとして、余りにも感情的になりすぎ、取材を台無しにしてしまったことに気付き後悔したが、後の祭りである。リチャードとのインタビューを使わせてもらうためには、彼に謝る必要があったが、謝罪の電話もメールもする気にもならなかった。きっと聡子さんは、私の無礼な態度に呆れていることだろう。オーストラリア人は皆リチャードのように考えているのかしらと思うと、心が寒々としてきた。ムシャクシャした気持ちで、晩御飯を作っていると、電話が鳴った。電話をかけてきたのは、聡子さんだった。
「吉田さん、今日はごめんなさいね。夫の意見で気を悪くされたことでしょう。私もいつも原爆に関しては、夫と意見が衝突するんですよ。実は、私、Japanese for Peaceと言うグループに入っていて、毎年8月6日に近い日曜日にコンサートをするんですよ。オーストラリア人でも、原爆反対の人も多く参加してくれる催し物なので、吉田さんもいらっしゃいませんか?」
「そうなんですか。私はメルボルンには3か月前に来たばかりなので、そんな団体があるなんて知りませんでした。それじゃあ、是非参加させていただきます」
聡子の誘いの電話で、私の怒りも段々と薄れていった。それにしても、夫婦して全く反対の意見を持っている人がいることに驚かされた。オーストラリアは日本と違って、個人主義の国なのだと、感心してしまった。まあ、日本でも今の時代は昔のように夫唱婦随ということはなくなったが。
8月6日に私は聡子に誘われて、コンサートに行った。州図書館が会場になっていたが、会場の中はメルボルンの冬だというのに熱気にあふれ、日本人だけでなく、オーストラリア人の姿も多く見られた。核兵器反対と言う人が、こんなにもたくさんいるのかと、正直言って、驚いた。まずオーストラリア人の政治家らしき人物の挨拶があった。
「オーストラリアはウラニウムの鉱山があるにもかかわらず、核兵器を持っておりません。そして鉱山で採取されたウラニウムは核拡散防止条約に調印している国にだけ売るという原則を持って、輸出してきていました。ウラニウムが軍事的目的で使われることをおそれたからです。しかし、その原則も、核拡散防止条約を調印していないインドにウラニウムを輸出することが承認され、有名無実のものとなってしまい、まことに遺憾です。また日本が、核兵器反対のために国連で『各国の首相は広島と長崎を訪れるべし』と言う文面を挿入することを提案したのに対して、中国が拒否権を発して没にしてしまったというのは嘆かわしいことです」
この政治家の話を聞きながら、私は思った。核兵器がなくなる日は、結局は来ないかもしれない。しかし、核兵器反対の意思を表示していくことは無意味ではない。集まった人たちの熱い思いを受けて、私はそう確信した。東京出身とか大阪出身とか、今までただの生まれた地域を指すために使っていた広島出身という言葉が、リチャードの言葉で、もっと重みのある意味を持つことを改めて気づかされた。世界で初めて原爆を落とされた町と言う事実が、広島と言う地に生まれた私の頭の片隅に知らず知らずのうちにこびりついていたのだろう。
参考文献
BBCドキュメンタリー 「Hiroshima」
インターネット検索
Wikipedia: Atomic Bombing of Hiroshima and Nagasaki
Wikipedia: Paul Tibbets
ウイキペディア:核拡散防止条約
著作権所有者:久保田満里子
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