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木曜島の潜水夫(5)

トミーが初めて乗った船は、トミー以外は愛媛県人で、愛媛の方言が船内を飛び交った。そのため、トミーが理解できないことも多く、何か仕事を言いつけられても反応が遅いため、「のろま」「ぼやぼやするな!」と怒鳴られたり殴られたり、いじめにあい、夜涙を流しながら寝る毎日だった。そのいじめに耐えられなくなって、3年の契約期間が過ぎると、ほかの会社に移った。新しい会社はワイベン真珠会社と言った。ワイベンと言うのは、先住民の言葉で木曜島のことを言う。ここでもトミーは料理人として雇われた。ただ全員和歌山出身の乗組員だったので、言葉が分からないと言う理由でいじめにあわなくてすんだ。それでもやる仕事は同じでつらい。毎日毎日トミーは「早く潜水夫になりたい!」そればかりを夢想して過ごした。
 トミーの唯一の楽しみは4月29日の天皇誕生日の休みだった。遠出をしていた日本人の乗っている船は皆天皇誕生日の17日前から、港に戻って来る。その時の港は船でいっぱいになり壮観である。この日には日本人会が中心になって英国と日本の国旗があちらこちらに掲げられ、飲めや歌えのお祭り騒ぎだった。「君が代」を日本のある北に向かって皆で背筋を伸ばして歌うと、日本人としての意識が高まった。 
 人一倍努力をしたトミーは一人前の潜水夫になったのは、木曜島に着いてから5年目、1930年のことだった。その翌年1931年は、1929年のウォール街の株暴落に始まった世界恐慌のため真珠貝の売れ行きも悪くなったため、多くの潜水夫が解雇された。しかしトミーは優秀な潜水夫と自他ともに認める存在となって、そのまま木曜島に留まることができた。
 トミーは一人前の潜水夫になると同時に、3本の帆を掲げたSepton(セプトン)と言う帆船の船長になった。船長は、潜水夫ボートの売り上げを考慮するだけでなく、航路の開拓もしなければならないので、責任重大だった。セプトンには、トミーのほかに、補充潜水夫、エンジニア、他に3名の乗組員と料理人の、計7名がいた。日本人5人、原住民2名で、日本人の乗組員は有田出身者ばかりだった。最初の愛媛県人との摩擦が深く尾を引いていたので、トミーは有田出身の乗組員を選んだ。原住民とは、簡単な英語で意思の疎通をはかった。トミーは下積みだった頃のつらい経験を踏まえて、他の船長のように、部下を罵倒したり、殴ったりせず、温厚な船長として、他の乗組員から慕われる存在になっていた。
 トミーが船長になった頃は、木曜島の浅瀬では貝が獲れなくなって、深い海に潜る必要があった。そのため、真珠貝産業の主力は、西オーストラリア州の西海岸に位置するブルームに移って行っていた。トミーが来る前の1919年にはブルームにはすでに1200人余りの日本人労働者がいて、木曜島の600人余りの人口の2倍はいたということだ。

ちょさ

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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