木曜島の潜水夫(32)
更新日: 2024-01-14
1956年には14歳になったトミーの息子、ラッセルは、原住民業務省に見習い大工として働き始めた。その年に、プラスチックのボタンが生産され始め、真珠貝からできるボタンにとって代わり始め、真珠貝採取産業の衰退が予測されるようになった末っ子のちおみが2歳になった1957年、トミーは船を買い、ちおみと名付けた。トミーはその船の船長として真珠貝の採取を続け、真珠貝はイスラエルに輸出されて、ダビデの星のペンダントになったり、ロザリーとして売られた。
トミーの船の乗組員は島の人だった。島の人達にはアルコールを売られない法律があったが、トミーはアルコール類を買って来て、皆で飲んだ。飲み終わったら、波止場の傍にある彼らの家に送り届けた。
トミーは話し上手で、色んな話をして皆を楽しませたが、その話が本当の話だったのかどうか疑わしいこともしばしばあった。ある日、彼は次のような話をジョセフィーンに聞かせた。
「島の人は鳥を食べるのだが、ここらにはトレス海峡鳩しか住んでいない。俺は鳩を食べるのには何の抵抗もないけれど、島の人ときたら、生きた鳩を煮えたぎったお湯に入れて殺すんだ。その後、翼や内臓を取って料理にするのかと思ったら、お皿に置かれて出されたのは、翼や内臓も取られていない丸ごとの鳩だったのには、びっくりしたよ」
ジョセフィーンが嫌な顔をすると、
「ひどい話だよな」と言って、くすくすと笑った。
ジョセフィーンは、トミーが彼女の驚く顔を見たくて作った話かどうか、判断しかねた。
息子のラッセルも独立し、1958年になると生活にもゆとりが出て来た。トミーは、家族の中で日本語の話せる者がいないのが、心寂しかった。そこで、長女の珠代を日本に6か月留学させることにして、日本の親戚に預けた。6か月後帰って来た珠代は、日本語が少し話せるようになり、ローマ字なら日本語が分かるようになって、トミーを喜ばせた。ジョセフィーンは、「あなたは何十年とオーストラリアに住んでいるくせに、日本人のままね」と笑った。
ちょさk
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