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モンテンルパの夜は更けて(2)

「モンテンルパの夜は更けて」の歌がきっかけになって、はま子は加賀尾と知り合った。加賀尾は丸顔の眼鏡をかけた柔和の感じの僧であった。はま子は初対面から加賀尾と意気投合した。そして、加賀尾に会うたびに、「モンテンルパの収容所に行って、戦犯の皆さんを慰問したいのですが…」と言ったが、国交も復活していないフィリピンに行く手だてがなかった。加賀尾はこの歌が日本国民の間に浸透していくのをばねにして、精力的に囚人たちの助命嘆願のための署名運動に乗り出した。その成果があって、500万名もの署名が集まった。
 はまこのフィリピンの刑務所慰問の願いがかなったのは、1952年12月24日のことだった。はま子は直接フィリピンに行くのは難しいと判断して、まず香港に飛び、香港経由でフィリピンに入国をした。
 この日、マニラ空港に降り立ったはま子を、元駐日大使のデュランが出迎えてくれた。デュランははま子のファンだった。その日は12月と言えども、マニラは40度にもなるムンムンするムシ暑い日だった。戦犯たちのいるニュー・ビリビット刑務所に着くと、ステージには『歓迎 渡辺はま子さま』という横断幕がかかっていた。はま子は、すぐに作曲者の伊藤正康と作詞者の代田銀次郎と会った。二人は、はまこに「自分たちの歌を歌ってくださってありがたいです」と言うと、深く頭を下げた。そんな二人に、はま子は「いえ、こちらこそ素晴らしい曲を作ってくださってありがとうございます」と礼を言った。はま子は初めて会った二人に、全くの初対面と思えないほど、歌を通しての心のつながりを感じた。
ステージに立ったはま子の前には、期待に目を光らせてた、やせ細った囚人たちが待っていた。その120名ばかりの男たちの目がはま子に注がれていた。
「皆さん、やっときましたのよぉ」と言うはま子のハリのある声が会場に響き渡ると、客席から熱狂な拍手が沸き起こった。その拍手の渦は皆がどれほどこの日を待ち焦がれていたかを感じさせるものだった。はま子は、ドレス姿でまず彼女のヒット曲「蘇州夜曲」や「シナの夜」を歌い、途中で振袖に着替えて、暑い中を汗だくになりながらも、「荒城の月」「浜辺の歌」を歌った。一曲終わるたびに拍手の嵐が湧き起こった。いよいよ最後に「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を歌うことになった。はま子が歌い始めると、会場のあちらこちらから斉唱の声があがり、最後にはその歌声は大きなうねりのように会場にとどろいた。どの顔も涙で濡れていた。はま子自身、涙で声が詰まりそうになるのを必死に耐えて最後まで歌いぬいた。
曲が終わり、「皆さん、お別れの時間となりました」と別れの挨拶をしようと思っていたはま子のそばに、デュランが寄ってきて、「君が代を歌いなさい」と言った。はま子は驚いてデュランの顔をまじまじと見た。天皇が戦争の元凶だと思われていた中で、日本軍によって被害を受けたフィリピンで天皇をたたえる歌を歌うことは、とうてい許されることではない。躊躇{ちゅうちょ)したはまこが見たデュランの顔は真剣そのものだった。「私が責任を持ちます」と言うデュランの力強い言葉に胸を打たれたはま子は、「皆さん、君が代を歌いましょう」と囚人たちに呼びかけた。すると、全員起立をして直立不動の姿勢をとると、日本のある北に向かって、皆が歌い始めた。涙で声がかすれている者も多く、中には感激のあまり途中で泣き崩れてしまう者もでた。皆君が代には万感の思いがあった。その歌を最後にしてコンサートは終わり、はま子は、もうこの人たちに会うことはないのだと思うと、後ろ髪をひかれる思いで、日本に帰国した。
(続く)
ちょさk


 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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