良心のうずき(最終回)
更新日: 2026-09-06
直治が一条の後継者に指名されてから1週間、一条は何事もなかったかのように、出かける時にはいつものように清次郎にお供させた。事故は、北海道の一条派の支部の演奏会が行われると言うので、その主賓として招待された一条が、清次郎を連れて北海道に行く夜行列車の中で起こった。寝台車の2段ベッドで、一条は下のベッドに寝て、清次郎は上のベッドに寝た。夜中、清次郎は一条が下でごそごそしている音を聞いた。目が覚めたものの、知らぬ顔を決め込んだ。一条が小声で「清次郎、清次郎」と呼ぶ声も無視した。しばらくすると、部屋のドアが開いて、杖を突きながら一条が出ていく気配を感じた。本来なら、自分が手を引くべきところだったが、清次郎は一条を恨んでいたので、一種の嫌がらせをしたわけである。「勝手にしやがれ」と心の中で毒づいていた。きっと一人でトイレに行ったのだろうと思った。だから、すぐに帰ってくるはずだと思った。ところが一条はなかなか帰ってこなかった。夜が白々と明け始めた頃、清次郎の不安が頂点に達した。起きて、一条を探しにを行った。トイレのある場所に行ってみた。トイレには誰もいなかった。清次郎は、車掌に一緒に探してもらおうと、車掌を見つけて事情を話した。清次郎はだんだん頭がパニック状態になっていった。もしも師匠に何かあったらどうしよう。必死になって探す清次郎に、車掌は、次の駅で停まった時に、もっと人手を借りて、探しましょうと言ってくれた。次の駅について車掌が駅舎の方に応援を求めて行って帰って来たが、車掌は清次郎の顔を見るなり、
「今、前の駅から連絡がありました。線路わきに50代の男性が倒れているのが発見されたそうです。どうやら列車のデッキから落ちたようです」
「それは、きっとうちの先生です。先生は目が見えないんです。それで、それで、先生はどんな状態なんですか」と清次郎が咳き込むように聞くと、車掌は首を横に振り
「残念ながら、発見された時には、すでに事切れていたそうです」
清次郎はその言葉を聞くと、その場にへなへな崩れ落ちた。清次郎としては、一条に少し嫌がらせをしてやろうと思っただけだった。それが一条の命取りになるなんてことは、夢にも思わなかった。
それからの警察からの事情聴取で、清次郎は、自分は熟睡していて、一条が出ていくのに気が付かなかったと言って、頭を抱えこんで、泣いた。取り調べをした刑事は、清次郎の自分を責める様子を目の当たりに見て、清次郎の話を信じて、結局一条は事故死と言うことで落ち着いた。
木原が鶴と結婚して、一条派を継いだ後は、知り合いの琴屋に雇ってもらって、琴屋の店員となり、人並みに結婚し、二人の子供に恵まれた。その後独立して琴屋を始めたが、最近琴を弾く人も少なくなり、おまけに琴の糸も丈夫になって切れにくくなり、琴屋は昔ほど重宝されなくなった。それで、店をたたんで隠居して、年金暮らしの生活を送るようになった。ずっと琴にかかわる仕事をしたにも関わらず、清次郎は一条の家を出てからは、二度と琴を弾くことはなかった。
恵子のエッセイを読み、清次郎は、また眠っていた良心がうずき始めた。あれは、事故とは言えない。自分が一条を殺したのだ。そう思うと、やるせなくなり、その日は眠れぬ夜を過ごした。
注:筝曲「春の海」で有名な宮城道雄の事故死からヒントを得て書いたフィクションです。宮城には子供はいませんでしたし、主人公の清次郎は実在しません。
著作権所有者:久保田満里子





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