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良心のうずき(2)

 初めて人気女優の今泉恵子が一条の稽古場に現れた時、一条は目が見えないので、恵子の容姿は分からないはずなのだが、なんだか、うきうきしているように清次郎には思われた。清次郎も恵子の美しさに思わず見とれた。その恵子がお稽古に来たのは10回ばかりだった。全く琴に触れたことがない人間が、10回の稽古で「六段の調べ」を弾くのは無理だったが、撮影するのは1,2分ばかりなので、一段目のやさしいところだけ教えてもらえればいいと言うので、10回の特訓となったのだ。恵子は呑み込みが早く、10回のお稽古がすむころには、六段の調べの出だしの部分を美しい音色で弾けるようになっていた。
 そういういきさつで、清次郎は恵子に会ったことがある。
 比奈は晩御飯として焼き魚と煮物、そしてみそ汁を作ってくれ、清次郎と一緒に晩御飯を食べて帰って行った。比奈の帰った後、清次郎は、比奈が置いて行ってくれた今泉恵子の本を手に取ってみた。
 恵子の本はエッセイ集のようで、有名人との出会いが面白おかしく書かれていた。パラパラとめくっていると、一条宗雅の名前が目に入った。清次郎が食い入るように読んだところには、次のようなことが書かれていた。一条は普段は弟子が手を引いているが、弟子がいない時は、2階から一人で階段を下りてくる時、いつも足を踏み外して転げ落ち、頭を柱にぶっつけて、「アイタタ」と頭を抱えることが多かったと書かれていた。そして、一条先生は不器用だったから、列車のデッキから落ちて死ぬと言う事故に遭われたのだろうと書かれていた。
 これを読んだ時、清次郎は、落ち着かない気持ちに陥った。そして、あの事故の時を鮮明に思い出した。
 事故の起きた1週間前、一条は弟子を一堂に集めて、「鶴は木原直治と結婚させることにした。だから、これからも二人を心暖かく見守ってやってくれ」と言った時、清次郎は頭をガンと殴られたような衝撃を受けた。そして、皆の目が自分に集まるのを感じた。弟子たちの間では、直治と清次郎の二人の高弟のうち、どちらが鶴お嬢様の心を射止めるか、また一条がどちらを選ぶかが大きな関心事であったから、敗者になった清次郎に憐れみのまなざしが注がれたのだ。清次郎はいたたまれなくなって席を立ち、お手洗いにかけ込んだ。いつもつらい時にはお手洗いで一人涙する清次郎だったが、一番弟子だと言うプライドがずたずたに引き裂かれ、惚れた鶴もライバルの妻になるのかと思うと、清次郎は一条に対する恨みがふつふつと沸き起こるのを禁じえなかった。お手洗いにどのくらいいたか分からない。その間、一条のもとを離れるべきかどうか考えたものの、自分の身の振り方は、もっと時間をかけて考えようと思った。ともかく鶴と直治が結婚する前には、内弟子をやめる決心をした。

ちょさk

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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