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EMR(32)

「ハリー・アンダーソンという人に連絡してくれますか?」と、理沙の口から自然に出てきた。
「電話番号は?」
 看護師に聞かれて、ハリーとは知り合ったばかりで、電話番号までは覚えていないことに気づいた。
「ハンドバッグの中の住所録にあるはずですけれど・・」
 そういうと看護師は哀れむように理沙を見て、
「ハンドバッグはどこにいったか分からないわ。ともかく瓦礫の山を取り除いて、生き埋めになっている人を助け出すだけで、皆精一杯だったのよ」と言った。
 看護師の後ろから、「理沙じゃないか」と言う声がした。声のするほうを見るとマーク警部だった。
「まあ、マーク」
 マークと三回しか会っていないのに、懐かしさで胸が一杯になってきた。
「今、負傷者から、事情聴取をしているんだけれど、君までが被害にあっていたのか」
「ええ。でも、命があっただけよかったです。空港のほうは大丈夫だったんですか?」
「うん。まだ油断ができないから全面的に警戒をといたわけではないけれど、どうやらメルボルン・セントラル駅が、奴らのターゲットだったらしい」
「じゃあ、ニールの嘘をEMRを使っても、見抜けなかったということでしょうか?」
「そこが、はっきりしないんだ。ムハマドたちは空港に警戒網が張られることに気づいて、急遽ターゲットを変えたっていうことも考えられるし、最初からメルボルン・セントラルを狙っていて、ニールを全面的に信用していなかったので、いい加減なことをニールに言ったってことも考えられる」
「ムハマド囮作戦は、結局失敗したのですか?」
 マークは苦笑いしながら、
「そうなんだ。君が帰った後、ずっとムハマドからの連絡を待ったけれど、結局連絡してこなかったよ」
「ということは、最初から空港を狙う予定はなかったから、ニールが提供した空港の警官の配置図なんて、いらなかったのかもしれませんね」
「今度は、大失策をしてしまったよ。せっかく君からテロ爆破の情報をもらったのに」
 沈痛な面持ちで、マークは言った。
「で、ムハマドの遺体はみつかったのですか?」
「いや。後で監視ビデオを見たところ、リッチモンド駅でムハマドとアバスらしき人物がリュックサックを背負って電車に乗るところが映っていた。ムハマドは三号車に乗って、アバスは六号車に乗ったことまでは分かっている。どうやらリュックサックにダイナマイトを詰め込んで、メルボルンセントラル駅のホームで爆破させたらしい。ホームは完全に吹っ飛んで、ホームにいた人たちの体もこなごなに吹き飛ばされたらしくて、遺体を掘り出すことも出来なかった。二人の体も木っ端微塵だよ。何も残らなかった」
 それを聞くと、ムハマドに対する怒りがムラムラと湧き起こってきた。
「どうして、そんなことをするんでしょうね」
「イスラム原理主義者の奴らは気違いだよ。正常な人間には、自爆テロなんてできないよ」
 気がつくと、看護師はとっくの昔に理沙のベッドを離れて、部屋の反対の隅っこにいる患者と話していた。
 マークがハリーの連絡先を知っているだろうと、理沙は思い、
「マーク。すみませんが、ハリーに私がプリンス・フィリップ病院にいるって知らせてくれませんか?」と頼んだ。
「お安い御用だ。じゃあ、また」と、マークはそそくさと病室を出て行った。
 マークが帰ると、看護師がサンドイッチと紅茶をを持ってきてくれた。サンドイッチを見ると、とたんに空腹なのを思い出したように、おなかがクウと鳴った。痛まない右腕だけを使って食べたが、右利きの理沙は右腕が無事でよかったとつくづく思った。サンドイッチをゆっくりと食べると、またいつの間にか眠りの世界に落ちていった。
 理沙が次に目を覚ましたとき、理沙の側にはハリーが心配そうに座っていた。
「理沙、目が覚めたのか?」
「あら、私、またいつの間にか眠ってしまっていたのね。今何時?」
「午後七時だよ」
「午後七時?じゃあ、私十時間眠っていたことになるわね。いつ病院に来たの?」
「今さっき。君が爆破に巻き込まれたと、マークから連絡があって、慌ててきたよ。たいした怪我でなくてよかったね」
「ありがとう。結局、私達、テロ攻撃を未然に防ぐことはできなかったのね」
「うん。でも君が責任を感じることはないよ。僕達は、できるだけのことはやったのだから」
「そうね。ムハマドは、一体どうして、あんな馬鹿なまねをしたのかしら?」
「我々にとって馬鹿に見えることも、本人にとっては命に換えてもいいと思うほど価値があることだったんだろ」
「傲慢よね。自分ひとり死ぬのなら、どうぞご勝手にって言いたいところだけど、あんなに多くの人を巻き込んで、自分は天国に行けると思っているんだから」
「結局、憎しみはまた新たな憎しみを生むっていうことを、知らないんだよな。アルカイダにしてもアルカイダに対抗する欧米諸国も。殴られたら、殴り返したくなるのが当たり前だけど、どこかで歯止めをかけなくちゃ、いつまでも憎しみが続く。悪循環だ。イエス・キリストみたいに、どこかで憎しみの連鎖を断ち切らなくちゃ」
「えっ?イエス・キリストが何かしたの?」
「イエス・キリストが十字架にかけられたとき、なんていったか、知っている?」
「私、聖書も読んだ事ないから、知らないわ」
「十字架にかけた奴らを許してやって欲しい、彼らは何をしているのか分からないのだからと神に祈ったということだ」
「ふうん。そこまで他人を許したら、それこそ他人にいいように搾取されるだけだわ」
「でも、どこかで誰かが憎しみを断ち切らないと、永遠に悪循環を繰り返すだけだよ」
「そうかもしれないけれど、私にはそんなことできそうもないわ」
「まあ、言うは易し行うは難しで、僕だってできないけれどね。ところで、今日ASIOから連絡があってね、EMRを売ってくれないかと言ってきたよ」
「ASIOって、何?」
「CIAは、知っているだろ?」
「ああ、アメリカのスパイ機関ね」
「そう。ASIOは、オーストラリア版のCIAっていうところかな」
「へえ、すごいじゃない。確かにEMRは情報をあつめるには役に立つわね。容疑者を拷問にかけなくても簡単に情報が手に入るし」
「うん。それに、テロリストがオーストラリアに侵入するのを防ぐために、旅券検査をするときに、係りの者にEMRをつけさせたいというんだよ」
「それは、いいかもしれないわね」
「ただ、こんなことが公表されれば、市民権擁護団体が黙っちゃいないだろうね。人権侵害だと言って」
「それじゃあ、秘密裡に契約を結びわけ?」
「そうしたいらしい」
「じゃあ、ハリーは随分お金持ちになるわね。私のほうときたら、先週新しい仕事についたばかりなのに、先週の金曜日はずる休みしちゃったうえに、今はこんな状態では、当分仕事にはいけないし、もうクビにされちゃうわね」と理沙が大きなため息をつくと、ハリーがにやりと笑って、
「僕のほうは忙しくなる一方だよ。君を雇ってあげようか?」と冗談めかしに言う。
「えっ?本当に雇ってくれるの」
 興奮して起き上がろうとした理沙の腕に激しい痛みが走って、理沙は「いたたた!」と言って顔をしかめた。
 そんな理沙を見て、「寝ていなきゃ、だめだよ」とハリーは苦笑いした。
 その晩ハリーが帰った後、理沙はハリーと一緒に働くところを想像すると、胸がときめいた。そして、「あんなむさくるしい男に胸をときめかせるなんて、なんて私は物好きなんだろう」と思いながらも、頬の筋肉がゆるんだ。 (続く)

著作権所有者:久保田満里子


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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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