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EMR(最終回)

「ブシュラ・ハサン」
 どこかで聞いたことのあるような名前に思えた。どこで、聞いたんだろう。考えていると、ムハマドの心の声で聞いたことを思い出した。「ブシュラ」。ムハマドの想い人も、「ブシュラ」という名前だった。このブシュラ・ハサンと言うのは、ムハマドの想い人だったのだろうか?理沙は無性に確かめたくなった。しかし、入院している身では、調べることも出来ない。
 その晩も見舞いに来たハリーに、理沙は、ブシュラはムハマドの友達だったか調べて欲しいと頼んだ。
「ブシュラって、何者なんだ?」
「ムハマドの恋人だと思うわ。もっともブシュラのほうはムハマドの気持ちを知っていたかどうか分からないけれど」
「ふーん。じゃあ、調べてみるか。時間がかかりそうだけれどね。僕は警察のように捜査能力はないからね」
「お願いします」
 理沙は左手が使えないとはいえ、重傷ではないので、三日で退院することができた。
 退院のことを母親に知らせると、
「それじゃあ、一人で大変でしょ?」と言って、日本から飛んできてくれた。
「来なくても、よかったのに」と言う理沙に、「お父さんが、行って来いってうるさくて仕方なかったのよ」と、苦笑いしながら言った。
「これ、お土産よ」と、理沙の好物のもみじ饅頭をたくさん持ってきてくれ、理沙の顔はほころんだ。その晩、久しぶりに母の手料理の野菜の煮物を食べると、口では来なくってもよかったのにと言いながらも、心の中で、母親に来てもらってよかったとつくづく思った。自分でできることはできるだけ自分でするようにしたが、左手が動かせなかったので、上着を着るには、母の手を借りなければいけなかった。
 退院した後、エイミーが時折顔を見せてくれたが、ハリーも省吾も一度も姿を現さなかったのが、理沙には少し寂しく感じられた。
 もうハリーは自分のことを忘れたのかしらと思い始めた頃、ハリーが理沙のマンションに姿をみせた。理沙はハリーの姿を見ると、自分でも顔がぱっと明るくなるのを感じた。
 理沙の母親がコーヒーを淹れてくれている間に、ハリーはブシュラの母親と会うことができたと顔を綻ばせながら理沙に報告した。
「ブシュラの家の電話番号を見つけることは比較的簡単にできたんだけど、ブシュラの母親に会うのは苦労したよ。僕が電話すると、ジャーナリストはお断りと、僕の話も聞かないで電話を切られたのには参ったよ。マークに取り次いでもらって、やっと昨日の晩会えたよ」
「で、ブシュラはムハマドを知っていたの?」
「そうなんだ。ブシュラのお母さんの話では二人ともイスラム教の教会の青年部に所属していたそうだ。ムハマドは、おとなしい感じの青年だったので、自爆テロを起こしたと聞いても、今でも信じられないと言っていた。あの日はブシュラは普通は仕事のない日だったんだけれど、友達に勤務を交代してくれと頼まれて、急に仕事をすることになって、シティーに行き、あんな事件に巻き込まれてしまった。本当に運が悪かった。たとえ顔見知りといえども、自分の愛娘を殺したムハマドを許す気にはなれないと、お母さんは泣いていたよ。お父さんはムハマドと言う名前を聞くのも腹立たしいと、怒りに燃えていたよ。それと言うのも、事件のあった日にブシュラ宛にムハマドからの手紙が届いたんだそうだ。切手が貼ってなかったから、切手代を払わされたそうだが、ブシュラが亡くなったため気が動転していて一週間その手紙をほったらかしにしていたそうだ。それを後で読んでみたら、ラブレターだったんだから、お父さんとしては、ブシュラを愛していたのなら、どうしてブシュラまで殺すことができたのか納得いかないって、青筋立ててまくしたてていたよ」
「そう」と言うと、理沙は急に黙って物思いに耽った。
「どうしたんだ?急に黙って」
「いえ、ムハマドは、あの時ブシュラも電車に乗っていたことを知っていても、自爆したのかしら。それともやめたかしらと考えたの。いずれにしろムハマドは結局自分の愛する人まで殺してしまったのだと思うと、なんだかやりきれない気がするわ」
「そうだね。犠牲者二百二十二人と言っても、その犠牲者たちは、ある人にとってはかけがえのない人だったことを思えば、何千人と言う人が犠牲になったんだね。そんな犠牲を払って、アルカイダは何を得られたんだろう?ムハマドも何を得たんだろう?人間て馬鹿な動物だとつくづく思うよ」
「本当ね」
 理沙は、心の中で、「確かに馬鹿な人間が多いけれど、あなたなら少しは世の中をよくすることができるんじゃない?EMRを使って、大いにテロリストと戦ってちょうだい。私もあなたとなら一緒に戦いたいわ」と言った。そして、慌ててハリーの耳を見て、ハリーがEMRを使っていないことを確認すると、安心すると同時に、自分の心が読まれていないか気にする自分がなんだかおかしくなって、くすくすと笑った。


著作権所有者:久保田満里子





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2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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