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ハンギングロック:後藤の失踪(10)

1月12日
 この一週間は新学期の授業の準備で大わらわだった。僕は上級のクラスの受け持ちだから学生数も大体見当がつく。去年の中級受講者が50人だったから、多くても50人少なくとも40人と見ていれば間違いない。大変なのは初級担当の狩野さんだ。新入生が科目を選択するまで学生数が分からなくて困っている。
 今日、狩野さんが、『ハンギング・ロックでのピクニック』の原稿を返してくれた。
「なかなか面白いですね。でも、これを全部読ませていると、それで一学期が終わっちゃいますよ。もっと簡潔にあらすじだけを読ませばどうですか?」
「そうだな。そうするとするか」
僕は狩野から原稿を受け取ると、すぐに100ページもある小説の日本語訳を5ページにまとめていくことにした。

1月20日
 やっと、『ハンギング・ロックでのピクニック』のあらすじも完成し、今日印刷に回した。
今日は新入生が入学手続きをしに大学を訪れる日だ。キャンパスには「新入生歓迎」の旗がかかり、正門では大学からアルバイトに雇われた学生達がパンフレットや色んな会社から寄付されたサンプル品の入っているバッグを新入生に渡している。去年までプラスチックのバッグだったのが、今年は布製に変わっている。マネージャーのマーガレットがプラスチックは環境に良くないから布製に変えたと言っていたが、最近は大学も環境に対する意識が高まっているようだ。僕も好奇心からバッグをもらってみた。大学案内の分厚いパンフレットやクラブやサークルの宣伝のパンフレットのほかにチョコレートやボールペン、薄っぺらな紙でできたような定規などあったが、その中にコンドームが混じっていたのにはびっくりした。コンドームを使って性病にかからないようにしましょうという謳い文句がコンドームの入っている袋に書かれていた。エイズがはやるまで、女性の避妊ピルの普及のおかげでコンドームなんか使う男はいなかったのだが、エイズがはやってきたのを境にコンドームが見直された感じだ。
 新学期が始まって久しぶりにキャンパスに活気が戻ってきた。夏の強い日差しの中で、新入生たちは友達とグループになって、楽しそうに大声でしゃべりながら歩いている。時折その集団にぶつかりそうになった。
 今日は香川さんが新入生向けに日本語の宣伝のための講義をする予定だ。今朝ちょっと家を遅く出たので自分の研究室に寄らず、直接今日彼女が講義することになっている講堂に向かった。彼女の作ったパンフレットを配る役を引き受けたのだ。講堂の外で香川さんを待っていると、講堂の中からチェン教授の声が聞こえてきた。チェン教授はイギリスの大学を卒業したということだが、生まれ育ったのはアメリカである。だからアメリカ英語を話しそうなものだが、完全にイギリス英語で話し、アメリカに住んだことがあるというのも信じられないくらいだ。きっと今年もOHPを使って中国語の宣伝をしているのだろう。まだ日本語の宣伝の予定の時間まで10分もある。5分待った頃、香川さんが現われた。手にはパンフレットを抱えていた。
「おはようございます」と僕がお辞儀をして言うと、
「おはようございます。今日はパンフレット配布、よろしくお願いします」と言った。彼女とは今年会うのは初めてだったが、もう1月も後半になって、「明けましておめでとう」と言うのもためらわれた。
「今日は何人ぐらい来るでしょうね。去年は確か70人だったわね。だから100枚あれば大丈夫だと思って、パンフレットは100枚しか作ってこなかったわ」
三々五々と集まり始めた学生に目をやりながら香川さんが話している間に、講堂のドアが開き、中からいっせいに学生がなだれ出てきた。ほとんどの学生がアジア系で、白人はほんの一握りだった。中国語を教えているスティーブは、中国語を専攻するのは親が中国人の学生が圧倒的だから、白人の学生は、中国語を勉強するのは不利だといって敬遠するんだよと苦い顔をして言っていた。オーストラリアには日本人の移民は中国人の移民ほどいないので、親が日本人で日本語を勉強している学生は少ない。しかし、メンジーズ大学では日本語を勉強するのはアジア系の学生が圧倒的に多い。
 中国語の宣伝を聞きに来た学生が出て行った後、講堂から出てきたチェン教授の手には予想通りOPHのシートがあった。
「やあ、君たちの番だよ。頑張って」と声をかけて、僕達の前を通り過ぎていった。
僕達が講堂に入ると、学生が入ってきた。一人で入ってくる学生はあまりいなくて、ほとんど2,3人連れだった。高校からの友達がグループになって固まっているのだろう。
香川さんはメモリースティックをコンピューターに差し込んでパワーポイントの準備をした。
その間僕はパンフレットを配って回った。
 予定の時間が来て香川さんが話し始めたので、僕は出席者の数を数えていくと、82人いた。去年より少し増えたようだ。
 香川さんは日本語の勉強は楽しいということを印象付けようと必死である。学生の好きそうなアニメや日本映画を見せて、日本語を勉強しようと言って話を終わった時は、学生たちから拍手と共に口笛まで飛んできた。香川さんの奮闘は成功を収めたようだった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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