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ハンギングロック:後藤の失踪(17)

 狩野は、レイモンド刑事の訪問で後藤の失踪を知ったわけだが、後藤のことが気がかりで、仕事に手が付かなくなってしまい、そんな自分に驚いていた。毎日のように顔を合わせるのが当たり前だったので、後藤がいなくなってまだ3日しかたたないというのに、後藤の不在がさびしく感じられるようになった。研究室をノックする音があると、もしかして後藤かしらと思うのだが、この3日間その期待は裏切られっぱなしである。
 狩野も捜索の何かの手伝いができればと、夕べは布団の中で寝ながら、後藤とした会話を思い返していた。後藤は「ハンギング・ロックでのピクニック」がフィクションだと知って、ひどくがっかりしていた。あれは、フィクションではないと証明するために失踪したのではないかとふと思ったが、そんな子供っぽい考えを起こすような人ではないと、その可能性を否定した。考えうる原因を一つずつ挙げて、その可能性を考えていった。事故で動けなくなった。これは、もう警察がハンギング・ロック一帯を捜査した結果、何も出てこなかったことから、事故の可能性はない。自殺。これもあの陽気な人柄から考えられないし、死体も出てこなかったから、自殺ではない。そうすると、誰かに殺され、死体を隠されたということも考えられる。自分で姿をくらました。ということもありうる。それに四次元の世界に入ったとか、宇宙人にさらわれたとか、タイムスリップしたとか、そういうこともあるかもしれないと思い、最後にプッと笑ってしまった。でも、自分で姿をくらます理由なんてあるだろうか。仕事の面では確かに上司からは睨まれていたが、同僚や学生からは人気があったから、そんなに仕事がいやになったとは考えられない。まず、そうだったら、私にこぼしているはずだ。あれこれ考えているうちに眠ってしまっていた。

 聡子は佐藤に電話して、日曜日に会う約束を取り付けた。佐藤とは後藤と別れてから一度も会っていなかったので、佐藤は聡子が電話するとひどく驚いた。佐藤に後藤が失踪したことを告げると「え?」といったなり、沈黙が続いた。驚きであいた口がふさがらないといった感じだった。何か手がかりになるようなことを知らないかと聞くと、すぐには思いつかないが、日曜日までに思いつくことを書いておくということだった。一人で佐藤を訪ねるほうがよいと思ったので、子供たちは翔太のお母さんに預けた。翔太のお母さんは、後藤に気があったようで、後藤の失踪を聞くと心配顔になり、気持ちよく子供の世話を引き受けてくれた。
 佐藤は聡子を見るなり、「大変なことになりましたねえ」と言った。佐藤夫人もコーヒーを持ってきて、「後藤さん、どうされたんですかねえ」と心配そうに言った。
「電話でもお聞きましたが、後藤はハンギング・ロックに行くような事を言っていましたか?」
「いや、聞いてませんねえ。後藤さんには先週の土曜日に会って、一緒に飲んだんですがね。ハンギング・ロックに関しては、『ハンギング・ロックでのピクニック』について学生に作文を書かせたが、なかなか面白いのがあって、感心したとはききましたが、だからと言って、ハンギング・ロックに行くようなことは言っていませんでしたよ」
「そうですか。最近悩みがあるようなこと、言っていましたか?」
「悩み?後藤さんが?いや、後藤さんにも悩みはあるとは思いますがね、奥さん、あ、すみません、もう奥さんではなかったですね。聡子さんもご存知でしょう?彼は楽天的な人だから、自殺までするようなことは考えられませんね。勿論、大学で論文を書けとか、本を書けとかいうプレッシャーが強くて大変だ。それに楽をしていい点を取りたがる学生が増えて、昔ほど教えることが面白くなくなったと言ってましたよ。悩みって、それくらいでしょうかねえ。でも、それくらいの悩みって誰でも持っているでしょ?」
「そうですよね。私も刑事さんから自殺の可能性はないかと聞かれた時は、思わず笑っちゃいましたよ。でも、最近はそれほど話もしていないので、全然その可能性がないとはいえなかったんですが」
「それにしても、後藤さんが消えてしまうって、不思議ですねえ。そういえば冗談交じりに、『僕は宇宙人に狙われているのかもしれないな』と言ったことがありますよ」
「宇宙人?何ですか、それ?」
「いえね、よく空飛ぶ円盤で宇宙人が地球に来ているって話があるでしょ?」
「そういえば、UFOを信じている人がいますよね」
「そう。先日もテレビ番組でやっていましたね。家に帰る途中、空飛ぶ円盤が現われて宇宙人に襲われて、人体実験をされて戻されたっていう人の話。それが話題になったとき、彼が言ったんですよ」
「どうしてそんなことを言ったんでしょうねえ」
「彼に言わせれば、時々朝起きると体に何かに切られた痕があることがあるというんですよ。どこで傷ついたのかさっぱり分からないし、それも朝起きたときに傷ができているというんです。だから、寝ている間に宇宙人に連れ去られて人体実験に使われたのかもしれないって」
聡子は、プッと吹き出した。
「まあ、後藤は子供っぽいところはありましたが、そんなことを言うなんて思いもしなかったわ。それで、佐藤さんは、どう思われました?」
「彼から傷の痕を見せられましたがね、確かに普段は服で覆われている背中とか腹に傷が付いているので不思議には思いましたよ。かみそりでこすられたような浅い傷ですから、ちょっと目にはわからないんですがね、体に触れると傷になったところがざらざらするんだそうですよ。それで気づいたなんていっていましたが。でも、宇宙人なんて、いるわけないじゃありませんか。宇宙人がいないかと電波を送って探索している観測所が世界中に何箇所かあるって聞きましたが、何の反応もないので宇宙人なんて眉唾物だと思っている科学者達が多いようですよ」
「そうですよね。ほんとに馬鹿馬鹿しい」
聡子はお話にもならないというふうに言った。その後、深刻な顔になって
「後藤が何かのために姿を自分からくらますなんて可能性は考えられませんか?」
「何のために?たとえば借金取りから姿をくらますとかですか?まあ、養育費に聡子さんにお金をかなり送らなければならないからきついとは言っていましたよ。でも、あいつが金を使うのは酒ぐらいですからね。賭け事をやるわけでもなし、たかが知れていますよ」
「そうですよね」
結局、佐藤から聞き出せたのは、後藤が宇宙人に襲われたと思っていたことぐらいだった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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