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ヒーラー(27)

「僕達の中で、キム側に知られていないのは、僕だけってことになるね」
ソンジュはそう言うと、何かを考えているかのように黙り込んでしまった。
時計を見ると午後の2時を回っていた。野上は椅子から立ち上がり、
「時間をかければかけるほど、相手に情報を広がらせる時間を与えてしまいます。私は早速今から故郷の漁港に帰って、漁船の手配をします。どうやってその漁港まで来るかは、皆さんで考えてください」と言った。それを聞いてソンジュは野上の意見に賛成した。
「そうだな。指名手配をされない前に行動を起こさなければいけないな。うまく準備できれば今夜出港しよう」
「それでは、今夜故郷の漁村で待っています。到着時間は携帯で連絡してください」と言うと、野上は部屋を出て行った。
「ともかく、日が出ているうちに行動するのは、まずい。その間、ゆっくり休んでください。僕はどうやってここから村まで行くのが一番安全か考えてきますよ」とソンジュも部屋を出て行った。
私はミョンヒと二人残された。ミョンヒの不安そうな顔を見て、私はミョンヒに申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「ミョンヒ、お兄さんからひどい目に遭わなかった?」
私はミョンヒが自分に関わることで蒙る被害を心配した。
「大丈夫よ。母は私の味方だし、この国では親に逆らうことは許されないことだから、兄は本当は私を拷問にでもかけて、あなたの居所をつきとめたかったんでしょうけど、私も家を出て友達のうちを転々として、兄に捕まるのを避けているの」
「大変なことになったのね。私のために、もう一人の人が死んだってこと、信じられないわ」
「ええ。でももうすぐ出国できるわ。ソンジュは頭のいい人だから、何か言い脱出方法を考えてくれるはずよ」
ソンジュの話が出て、私は顔がゆるんだ。
「彼は、あなたが本当に好きみたいね」と言うと、ミョンヒもはにかんだように、
「そうみたい」と言って、クスリと笑った。
「さあ、今夜は寝られないと思うから、今のうちに寝ていて。私はもうこれで帰ることにします。一緒に行動するとかえって目立ってしまうから。無事にオーストラリアに帰られることを祈っています」と言った。
そう言って部屋を出て行こうとしたミョンヒの背中に向かって、
「ミョンヒ。ありがとう。無事に戻れたらオーストラリアでまた会いましょうね」と言った。
するとミョンヒは振り返って私を見たが、寂しそうに
「もう、オーストラリアに行くこともないと思うわ」と答えた。
それだけ言うと、急ぎ足で部屋を出て行った。
もうミョンヒに会うこともないのかと思うと、胸が痛くなった。そして心の中で、「ミョンヒ、あなたの無事を祈っているわ」とつぶやいた。
独りになり、しーんとした部屋のベッドに横たわると、今日の出来事が思い出された。生まれて初めて人が撃たれて死ぬのを目の当たりに見た衝撃は強かった。キムの部下の胸から流れ出す血が頭について離れなかった。それでも疲れていたのか、いつの間にかうとうとしたようだ。
部屋のノックの音を聞いて目が覚めた。とっさに自分がどこにいるのか分からなくなっていた。そして、自分がミョンヒたちに助けられたことをゆっくり思い出した。そのあと、またノックの音が聞こえた。時計を見ると5時を過ぎていた。ドアに向かって、「どなたですか?」と韓国語で聞いた。
「ソンジュだよ」とソンジュの声が聞こえた。すぐにドアを開けると、ソンジュが誰かに見られるのを避けるように、すぐにするりと部屋に入り、ドアの鍵を閉めた。
「どうやって、漁村まで行くか、何かいい考えが浮かびましたか?」
そう言うと、
「君の手足を縛って、後ろの席に寝転がってもらって運ぶことにしたよ」
「えっ?どうしてですか?」
「まだキム側には、僕がこちらに一枚加わっていることを知られていないだろ?だから、もしも検問か何かで止められたら、君を逮捕して、始末をする場所に連れて行くところだと言えば、警察の連中も納得すると思うんだ」
「まるで弁慶と牛若丸ですね」
「なんだ、その弁慶と牛若丸って言うのは?」
「牛若丸の家来の弁慶は敵方に捕まりそうになった時、『お前が牛若丸なんて奴に似ているから俺たちは迷惑するんだ』と言って、ぼかっと牛若丸を殴ったという話です。まさか家来が主人を殴ることなんて考えられないので、敵方も弁慶の言うことを信じ、敵方から逃れられたという話です。もっともソンジュさんは、私の家来でもなんでもないけど」
ソンジュが家来なんて言葉に気を悪くしたら困ると思って、急いで付け足した。
ソンジュは苦笑いしながら、
「野上のほうからは、うまく漁船を確保できたと言って来た。だから、後1時間もすれば暗くなるだろうから、暗くなったら、出発する。その前に、腹ごしらえをしておいたほうが、いいよ。ルームサービスを頼もう」と言って、電話でルームサービスを頼んだ。
「ルームサービスの係が来たら、君はバスルームに隠れてくれ。一緒にいるところを見られると、まずいからね」と言われ、ルームサービスが来た時は、言われたように、バスルームに隠れた。ソンジュが注文した料理を食べると、元気が出てきて、日本に帰られるという期待で胸が膨らんできた。
外が暗くなり、ソンジュも私も暗闇で見えにくいように、黒いセーターとズボンに身を包んだ。二人ともマフラーをつけ、マフラーで口元を隠した。できるだけ顔をさらけ出すことを避けた。ソンジュは、どこに非常階段があるのか調べて来ていて、二人はカップルのように手を取り合って、部屋を出た。幸いにも非常階段はソンジュの部屋のすぐ隣にあり、誰にもみとがまれることなく非常階段を降り、車に乗れた。

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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