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ヒーラー(28)

車に乗ると、早速ソンジュは後ろの席に乗った私の手足を縛り、横たわって置くように言った。私はこれからどうなるのかと思うと恐怖で体がすくみ、無事に日本につけることを祈った。高速道路はゆれなかったが、高速道路を抜けると道路の表面ががたがたになっているらしく、横たわっていると、揺れが一段激しく感じられた。
体が持ち上げられては、落とされる。普通なら車酔いをするところだが、緊張感のためか、車酔いはしなかった。ただただ黙って揺れにたえた。
また車はほとんど見られず、ヘッドライトにともされる道路が前方に見えるだけで回りは暗闇に包まれていた。
ソンジュも緊張した面持ちで黙って運転をしており、車のエンジン音以外はあたりは静寂に包まれていた。
走り始めて1時間経った頃であろうか。ソンジュが緊張した声で言った。
「前方に明かりが見える。もしかしたら検問をしかれているのかもしれない。君は黙っていろ」
「ええ」そう答える私の声は震えていた。

車はゆっくり止まると、機関銃を持った警官が車に近づいてきた。私は体をこわばらせ、音を立てないように後ろの座席に転がって息を呑んだ。
ソンジュが窓を開けると、
「何があったんだ?」と聞いた。
「この近くの強制収容所から政治犯が脱走したので、その囚人を探しているんだが、車の中を調べさせてもらう」と若い警官が言った。
「俺は、陸軍少将のパク・ソンジュと言う者だ」とソンジュは身分証明書を見せながら言った。たちまち若い警官は、気をつけの姿勢をして、「失礼しました」と言った。
「脱走したのはどんな奴なんだ」
「イ・サンヒョクと言う20歳の男で、父親が偉大なるリーダーを暗殺しようとした罪で、終身刑を言い渡された男です」
「ああ、偉大なるリーダーの護衛が突然リーダーの頭に拳銃を突きつけた、あの事件の犯人の息子か。確か、その護衛はその場で射殺され、護衛の家族は全員強制収容所に送られたんだったよな」
「はい。そうです。もし見つかったら、射殺しても構わないと許可が下りていますから、その場で射殺してください」
「分かった」そう言って、ソンジュが車を出そうとしたら、警官は私の姿を認めたらしく
「ちょっと、お待ちください」と大きな声を張り上げていった。私の背筋がヒヤッとした。
ソンジュは車のエンジンをかけたままで、
「何だ?」と聞いた。
「その後ろにいるのは、誰ですか?」
「ああ、あれか。おれもお尋ね者を捕まえてね。今、そいつを収容所に連れて行くところだ」と平静を装って答えた。
「そうですか。それは、ご苦労様です」と警官は、少し腑に落ちないようだが、あえて後ろの座席の女を見せろと言わなかった。階級制の厳しい社会なので、ソンジュの高い地位を鑑みて、捜査をすると言う言葉を喉元で押しとどめたようだ。
私たちの車が走り始め、検問の明かりが見えなくなって初めてソンジュが
「ひやひやしたが、うまくいったようだな」と言った。
「ええ」と私もやっと人心地ついて言った。
これで、もう誰にも見つからないで波止場まで行けることを願わずにはいられなかった。
また暗闇と沈黙の世界に戻った。聞こえるのは、車のエンジンの音だけである。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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