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ヒーラー(30)

漁船の機関室には野上のおじ、ヨンスが黒い海に目を向け舵を握っていた。明かりをつけて警備の者にでも見つかると大変なので、明かりなしに舵をとっているようだ。

「日本まで、どのくらいかかりますか?」

「早ければ、明日の朝までには、日本の領海にはいるはずだ」

そうだ。日本本土に上陸しなくても、日本の領海まで行けば、安全だ。

「警備は厳しいんですか?」私は捕まる可能性がどのくらいあるのか、知りたかった。

日の焼けた赤い顔をこちらに向けて、ヨンスはにやりとして、

「巡視船は、余りいないな。ともかくこの国は何もない国だからな。食べ物も十分にないが、燃料なんてもっと不足している。だから巡視船を走らせる燃料がないんだ。だからと言って安心はできないがね。ときおり運悪く巡視船にでくわすこともあるからな」

黙っていると、つかまったときのことを想像してしまうので、恐怖感を振り払うために私はしゃべり続けた。

「どうして韓国に脱出することにしたんです?」

「あんたは、北朝鮮がどんな国か知らないのか?」

「ほとんど逃亡生活でしたから、はっきり言って知らないんです」

「ホンリンからは余り詳しいことを聞いていないが、あんたは一体何をやらかしたのかね?」

ホンリンと言うのは、野上の本名のようだ。

「拉致されて来たんですよ。病気の首領を治せなかったからと言って、今では犯罪者扱いで、逃亡を余儀なくされたんですよ」

「首領が病気?そんなこと聞いていないな。確かに首領の姿は最近ニュースで見かけなくなったが」

「それよりも、おじさんが、逃亡したい理由を教えてくださいよ」

「この国で、逃亡をしたくないなんていう奴はいないんじゃないかな。勿論首領一家は別として。先日なんて、首領の二番目の夫人の甥が韓国に逃亡したって、誰かから聞いたよ。食べるものが不足して餓死するものもいるくらいだ。だからと言って首領の悪口を言おうものなら、すぐに強制収容所行きで、死ぬまで働かされる。たとえ政府の高官であってもすぐに粛清されてしまう。だから心の中で不満を持っていても首領に反対するものなんて一人もいない。そんな息苦しい国にいたくもないよ」

「そうね。私もニュースで北朝鮮のことを聞くだけだけど、非人道的なことをするキム・チュンサンなんて、死ねばよいと思っていたわ。それなのに彼の病気を治せと強制されたんだから、たとえ私が有能なヒーラーだったとしても、治せるはずないわよね」

「へえ、あんたはヒーラーなのか」

「ええ」と言おうと思ったら、船が大きく揺れ始めた。そばの柱につかまったものの、ゆれはますますひどくなり、立っているのもむずかしくなった。舵をとりながら、ヨンスは「これからゆれはますますひどくなるから、座っていたほうがいいよ」と言ってくれた。機関室の隅で腰を下ろしたものの、私はだんだん頭がくらくらし始め、吐き気をもよおした。慌てて機関室からとび出ると、びゅんびゅん風が吹きしぶきがかかってくる船の縁に出て、顔に波しぶきを浴びながら今晩食べたものを海に向かって全部吐き出してしまった。口の中に胃液の苦味が残ったものの、あげた後は胃のほうは落ち着いた。しかし頭痛はひどくなるばかりだった。こんな荒海を航海するのは初めての経験だった。痛みに耐えて、じっとかがみ込んでいた。ヨンスは荒海に慣れているようで、平気な顔で立ったまま舵を握っていた。両手を頭に当てると、痛みが少し和らいだ。そうだ。私はヒーラーなのだと、思い出した。こうして頭に手を当てて祈っていれば大丈夫と自分に言い聞かせた。頭の痛みは手を伝わって、消えていくようだった。私はそのまま寝込んでしまったらしい。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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