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百済の王子(17)

 豊璋が声のするほうを見ると、中大兄皇子が蘇我入鹿に突進して行き、隠し持っていた刀を抜き、蘇我入鹿の頭と肩をめがけて切りつけた。皆、突然のことで唖然としている。切りつけられた入鹿は血を流しながら必死に逃げようとする。それを見ていた参列していた豪族の一人、佐伯連子麻呂も刀を持って入鹿の足を切りつけた。入鹿は足を切られてよろけながらも、天皇がすわっている玉座に這うようにしてたどり着き、驚きで凍り付いたようになっている皇極天皇を見上げて言った。
「玉座についていらっしゃるのは天皇のはずです。私に何の罪があるのです。天皇なら私の無実をご存知のはずです。とうぞお取調べください」と息絶え絶えに訴えた。
天皇は入鹿の訴えを聞くと、今にも入鹿の息の根を止めんと刀を構える中大兄皇子をキッとにらみつけ
「いったいどうしたのです。どうしてこのようなことをするのです」と、中大兄皇子を大きな声でとがめられた。すると、皇子は天皇の前にひれ伏すと、今までの憤懣を一気に爆発させて答えた。
「入鹿は天皇家の人間をことごとく滅ぼし、王位につこうとしました。どうして入鹿に王位をつがせることができましょうか」
皇子の剣幕に、天皇は返す言葉もなく、玉座から立ち上がると、何もおっしゃらないまま、奥に引っ込まれてしまった。天皇家の人間を滅ぼしたというのは、入鹿が聖徳太子の息子、山背大兄皇子と彼の一族を殺したことを指していることは、そこにいた者には、すぐに分かった。天皇が奥に引っ込まれると、天皇は入鹿を見捨てられたと解釈した佐伯連子麻呂ともう一人の豪族、稚犬養連網田は、玉座の前で息絶え絶えで横たわっている蘇我入鹿を滅多切りにした。その時になってはじめてあちらこちらで悲鳴が起こり、儀式に参列していた人達が、我を先へと宮殿の外に向かって逃げ始めた。 豊璋はすぐにはその場を離れられなかった。凍りついたようになり、その場の成り行きを見ていた。入鹿は見るも無残な姿になった。入鹿が確実に動かなくなったのを確かめると、中大兄皇子は兵士を呼んで、死体は庭に放り出させた。宮殿の中庭は、雨に打たれた死骸から流れ出る血で真っ赤に染まった。悲惨な光景だった。 豊璋は衝撃を受けてよろけた。蘇我入鹿とはそれほど親交はなかったが、入鹿の父親の蝦夷からはよく歓待を受けていた。すぐに蝦夷の顔が思い浮かんだ。蝦夷は息子の死をどのように受け止めるだろうか。自分に従っていた他の有力豪族に声をかけて、復讐のために中大兄皇子を襲うのであろうか。ともかく大変なことになった。 気を取り直した豊璋は、すぐに宮殿の外に向かった。早く出ようと思っても、足がもつれて、思うように動かない。やっとの思いで外に出ると、待っていた供の者に「すぐに屋敷にもどろう」と言って、蝦夷にもらった愛馬に飛び乗った。供の者たちは、顔面蒼白になった主人を見て、何事が起こったのかといぶかったが、訳を聞くのははばかられ、すぐに主人の後を追って、屋敷に戻った。屋敷に戻ると、 豊璋はすぐに禅広を呼び、今日のできごとを声を震わせながら語った。
禅広は、「クーデターが起こったのですね」と不安そうに言った。
「そのようだ。宮殿に入るときに刀も取り上げられ、護衛兵ともきりはなされてしまった。これは、中大兄皇子がはかったことに違いない」
「我々はどうなるのでしょう?」
禅広が心配顔で聞いた。
「我々に直接害が及ぶとは思えない。中大兄皇子は、蘇我氏から天皇家が実権をとりもどすために蘇我入鹿を殺したと天皇に弁明していた。しかし、我々は蝦夷殿にはよくしてもらった。伝え聞いたことによると、天皇家の祝儀の席に、蝦夷殿と入鹿殿は、百済の官服を着て出席して、ひんしゅくを買ったこともあったというくらいだ。蘇我氏はそれほど、百済に傾倒しておられた。入鹿殿が亡くなられた今、蝦夷殿はどうされるのだろうか。下手をすると国中が戦争になるかもしれない。蘇我氏に従う豪族は多いからな。ただ中心人物だった入鹿殿が死んだとなると、今まで蘇我氏に従っていた豪族が離れていくことが考えられる。いずれにせよ、蘇我氏の権力が失墜したことは確かだ。供の者を蘇我氏の屋敷に送って様子を伺わせよう」と、 豊璋は、すぐに蘇我邸に供の者を送った。供の者には、様子を見るだけで、すぐに戻ってくるように言いつけた。下手に蘇我氏にかかわっては、自分に災難が及ぶと思ったからだ。
供の者は、すぐに戻ってきた。
「大変です!蘇我氏のお屋敷は炎上して、蝦夷様は自害なされたそうです」
その知らせに 豊璋と禅広は思わず立ち上がって、同時に叫んだ。
「本当か!」
「とうとう蘇我氏は滅びたのか…」と、 豊璋は独り言のように言って膝から崩れ落ちた。
そして、自分も太子の地位を追われた時のことを思い出した。この世では、権力をもつかどうかで生死が決まる。これからの自分達の境遇が気がかりだった。
著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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