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百済の王子(18)

セーラはそれまで毎日会っていた 豊璋に一日でも会えないので、心寂しい気持ちになった。そしてそんな自分の心の動きに驚いた。
「彼はどうしているのだろう」と、その日何度も思った。だから、翌日には、いつものように呼ばれるに違いないと思っていたが、 翌日も豊璋から声がかからなかった。
「どうされたのだろう?お忙しいのかしら?」
セーラは豊璋のことが気がかりで、夕餉を運んで来た若い下女に聞いた。
「今日は、まだ 豊璋様はお戻りではないかしら?」
「ご主人様はお戻りです」
「そうなの。お忙しいのかしら」
セーラの問いかけに、下女は、少し戸惑ったような顔をして、セーラを見た。何か知っているが、それを得たいの知れぬ女に言っていいものかどうか、迷っているようだった。
「何か、あったのね?何があったの?教えてちょうだい」
下女は上目遣いにセーラを見て、もじもじした。
「あなたから聞いたなんて、誰にも言わないから、教えて」
セーラは最後には哀願するように聞いた。
下女は、しばらくもじもじしていたが、思い切ったように顔をあげて言った。
「蘇我入鹿様が、中大兄皇子様に討たれたのです」
「蘇我入鹿?中大兄皇子?」
セーラにとっては耳新しい言葉だった。よく考えれば、 豊璋には自分の知っていることを話はしたが、 豊璋から、この国のことについて何も聞いていないのだ。
セーラの疑問に、下女のほうが、驚いたようだった。そして、自分がおしゃべりしすぎたと思ったのか、
「それでは失礼します」と、セーラの疑問には答えないで、そそくさと部屋を立ち去った。
セーラはその晩、眠れなかった。何か異変が起こったようだ。それが 豊璋にどのような影響を及ぼすのかはっきり分からないので、いろいろ悪い想像が膨れ上がり、不安でいたたまれなくなって、夜中何度も目が覚めた。暗闇で考えることは不吉なことばかりであった。
次の日、不安のために食欲もわかず、朝食を残してウツウツとしていたセーラは、夕暮れ近くなって、 豊璋に呼ばれた。下女から、 豊璋が呼んでいると聞いたときは、嬉しくて、 豊璋の部屋に向かうときには小走りになっていた。
 豊璋の前に座ると、 豊璋は憔悴しきった様子だった。セーラは下女から聞いた話は、知らないふりをすることにして、もの静かに聞いた。。
「お顔の色がすぐれませんが、どうされましたか?」
すぐには、セーラの質問には答えないで、 豊璋は大きなため息をついた後、言った。
「そなたに言っても始まらないが、きのう大変なことが起こったのだ」
「何が起こったのですか?」
「中大兄皇子という方の名前を聞いたことがあるか?」
「いいえ。知りません」
「お前が額田王の屋敷で会った大海人皇子の兄君だ」
「ああ、あの方の…」
セーラはなかなかハンサムだった大海人皇子の顔を思い浮かべた。
「その中大兄皇子がどうなさったのですか?」
 豊璋は、大きく肩で息を吸って言った。
「中大兄皇子がきのう、蘇我入鹿様を殺されたのだ」
セーラは、きのう下女から聞いたことを思い出した。下女はどうして中大兄皇子が蘇我入鹿を殺したのかまでは説明してくれなかった。ただ、重要人物が皇子に暗殺されたことだけは理解できた。
「きのうは新羅の国の大使が貢物を持って来たというので、その献上の式に私も呼ばれて宮中に行ったのだ。その式場には護衛の者を連れて入れぬことになっていたので、いつもは強靭な護衛に囲まれていた蘇我入鹿殿は一人でお入りになったのだが、物陰に隠れていた中大兄皇子が突然刀を振りかざして、入鹿殿を殺されたのだ」と言うと、思い出すのもおぞましいというように身震いした。
「どうして中大兄皇子はその蘇我入鹿という人を殺したのですか?」
「それは、蘇我入鹿にとられていた権力を天皇家に取り戻そうとしたからであろう。確かに蘇我入鹿は皇極天皇を無視して、色々無礼なことをしてきたのは、我も聞いたことがある。豪族どもは天皇に政のお伺いはせず、全て蘇我入鹿殿によってとりしきられていたということだ。しかし、私がここに来たときには入鹿殿の父上、蘇我蝦夷殿は余を畝傍の自宅に呼んで、両刃、鉄蹄を贈ってくださった。初めて来た地で心細い思いをしていたので、その時の嬉しかった気持ちは今でも忘れられぬ。蝦夷殿には余が倭国に来てこの2年の間、しばしば余を自宅に呼んで歓待していただいたものだ。その蝦夷殿は入鹿殿が暗殺されたと知るや否や、お屋敷に火を放ち、自害されたということだ。いたましいことだ」
悲愴な面持ちで語る豊璋は、自分の実の父親が亡くなったような衝撃をうけているようだった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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