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百済の王子(23)

第五章:セーラの恋
軽王子が即位され、孝徳天皇の時代となり、3ヶ月は何事もなく時間が過ぎていった。その間、セーラの 豊璋に対する思いだけが段々募っていった。セーラを、一人の人間として扱ってくれるのは 豊璋だけだとセーラには思われた。 豊璋には、タイムスリップ以外のことは、話せるようになっていた。以前は、こんなことを言うと、 豊璋を怒らせるのではないかとビクビクしていたのが、今ではそんなことがあったのがうそのように、 豊璋の前では自然に振舞えた。
平穏な日々が続いていたある日、セーラが夜中目を覚ますと、セーラの部屋の前を人があわただしく行きかう音が聞こえた。尋常ではないことが起こったような嫌な予感がしたセーラは、すぐに普段着に着替えて、庭に出た。外はまだ明けきっておらず、薄ぼんやりとあたりが見える中を、いつもセーラの世話をする下女が、小走りで 豊璋の部屋に向かっていくのに出くわした。セーラは、 豊璋の身に何かおきたのではないかと、胸騒ぎがし始めたので、思わず、その下女を呼び止めた。
「おりん。何事が起こったのです?」
おりんはセーラのほうをチラッと見て、
「奥方様が危篤に陥られたのです。急ぎますので、ごめんくださいませ」と言うと、頭を下げて走り去った。豊璋の妻とは、セーラは一度きりしか会っていない。セーラが初めて屋敷に連れてこられたとき、見たきりであった。 豊璋を玄関で出迎えた、美しいが陰気くさそうなやせた小柄の女を思い出した。 豊璋の妻に何が起こったのだろう。危篤と言うことは、病気の可能性がある。医者でもない自分が 豊璋の妻を見ても、何の助けにもならないだろう。でも、もしかしたら、何か手助けをすることができるかもしれない。そう思う一方で、もし 豊璋の妻が死ねば、 豊璋は自分をもっと女としてみてくれるかもしれない。錯乱した思いが頭をよぎった。二つの思いがセーラの心の中で葛藤したが、セーラは豊璋の妻の死を望む自分の思いを振り払うように首を振って、「いや、 豊璋には随分世話になっている。彼の恩に少しでも報いるためには、 彼の妻の病気を治す手助けができるなら、手伝いをすべきだ」と何度も自分を説得させるように小声でつぶやいた。そして、 豊璋の妻を救いたいという気持ちが打ち勝った時、セーラは、おりんの後を追っていった。おりんを追えば、 豊璋の妻のいるところが分かると思ったからだ。おりんが行ったところは、 豊璋の部屋を通り越して、セーラの住んでいる部屋とは真反対の所にあった。
部屋の戸は閉まっていたが、板戸の隙間を通して、中に明かりがともされているのが見えた。そして、 豊璋の声が聞こえたが、韓国語で何か言っているようで、セーラには意味は分からなかった。しかし、泣き叫ぶようなその声は、セーラの胸を貫いた。
部屋に、水の入ったたらいを持って入ろうとしていたおりんを呼びとめ、
「その水、私が持っていくわ」
と、おりんの手からたらいを引ったくるようにしてやり取り上げ、あっけにとられているおりんを後にして、セーラは躊躇することもなく、部屋の戸を開け、中に入っていった。
部屋の中で、横たわっている豊璋の妻の側で、妻の手を握って泣き叫んでいる豊璋は、セーラが部屋に入っていっても気がつかないようだった。
セーラは持って入ったたらいを 豊璋の妻の枕元に置くと、 豊璋の妻の顔を見た。
青白くなった顔。紫色になった唇。半眼。命の火が消えていくのが見て取れた。セーラは、すぐに人工呼吸をする以外に、 豊璋の妻を生き返させることはできないと判断した。人工呼吸をしたって、手遅れかもしれない。でも、何もしないで手をこまねいているよりはましだろう。
そう思うと、凛とした声で、 豊璋に言った。
「 豊璋様、どいてもらえませぬか?」
 豊璋は、声の主がセーラであることに気づいて、
「そなた。ここで何をしている?」と驚きの声をあげた。
「ともかく、奥様を生き返させたいとお思いなら、おどきください」ともう一度、 豊璋に言って、 豊璋の妻の鼻をつまみ、 豊璋の妻の口を開け、大きく息を吸い込んで、自分の息を豊璋の妻の口に注ぎ込んだ。あっけにとられている 豊璋を遠ざけると、セーラは奥方の上に馬乗りになり、奥方の胸を両手で思い切り押した。息を吹き込むと、奥方の胸が膨れ上がる。それを渾身の力をこめて、両手で押す。一心不乱で、その動作を繰り返した。

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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