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百済の王子(36)

  豊璋達の船は、瀬戸内海を通った後、日本海の荒波にもまれて、百済に向かった。百済の戦況がどうなっているか全く分からない。船の中で佐平貴智から、今までの戦況を聞いた。
「新羅は度々唐と組んで、百済を滅亡しようと、何度も唐に援軍の要請をしていたようです。最初この要請を無視していた唐の高宗が、ついに、唐の将軍、蘇定方に対して、水陸13万の兵を率いて百済を討伐するように命じ、新羅の太宗武烈王にもこれを支援するように命じたのです。」
「13万の兵!」
 豊璋は、その数だけでも、圧倒される思いだった。今一緒に百済に向かっている援軍は5千人である。
「その情報が入ってきたとき、義慈王様は、どうしたらよいかと臣下に問われたのですが、皆これと言って妙案も浮かばず、王様もどうされたらいいのか分からない状態が長く続いたのです。王様の行いをいましめたため、拷問されて獄死した成忠様は、唐と新羅の連合軍が攻めてくることを予見して、陸では白江の防衛を進言されていましたが、王様は、成忠様の助言を無視されました。また、古馬弥知(こまみち)県に流されていた佐平の興首(こうしゅ)も同じような作戦を進言していましたが、王様はこれは興首が流罪にされた恨みから、王様を惑わすために言った作戦だと決め付けられ、興首の進言も無視されたのです。結局は、唐軍がその地を通過した後に迎撃すべきと、王様は決断されました。後で分かったことですが、王様が作戦会議を開いている間に、唐軍はその地をすでに越えて侵入していたのです。新羅の太子法敏は、徳物島で唐の将軍、蘇定方を出迎え、蘇定方から『7月10日に百済の南で新羅軍と合流して、義慈王様の居城、都城を討ちたい』と言われ、7月10日に合流することを約束したと言う情報を我軍が得ました。新羅の王、太宗は、新羅の有名な武将キムユーシンらに命じて精兵5万人を率いて唐軍に呼応させようとしているというので、我が軍のケベック将軍がその合流をはばむため、5千人の決死隊を率いて、戦闘に臨まれました。この決戦については、すでにお聞き及びのことと思いますが、5千対5万、最初から勝ち目がなかったのですが、ケベック将軍は3度も戦闘を繰り返し、防衛されました。しかし4度目の合戦ではついに力尽きて戦死されました。でも、ケベック将軍の決死隊の阻止で、新羅は唐と合流する予定日に遅れ、蘇定方は怒って、新羅の将軍を斬ろうとしたそうです。蘇定方の部下が、新羅の将軍を斬れば、新羅が離反するだろうと助言して、蘇定方を何とか思いとどまらせたと聞きました。
蘇定方は城山から海を渡って上陸する際に泥沼で手間取っていましたが、柳の筵(むしろ)を敷いて上陸し、熊津江口まできてしまいました。我が軍は、川に沿って陣を敷いて防衛にあたっていたので、唐軍は東岸よりあがって山上に陣を張り、結局は我が軍は大敗してしまいました。海を覆いつくす圧倒的な数の敵の大軍の前に我が軍は敗れて数千人が死にました。残りの我が軍の兵士は恐れをなして我先にと逃げ去ってしまいました。蘇定方の軍は潮に乗って、川に入ってくる船とともに、水陸両面から進撃してきました。都城から20里のところで我が軍は防戦しましたが、一万余人が殺されたり捕虜になり、敵軍が都城に迫ったので、王様と太子隆様は北境に逃げ去られました。城には王様の次子であられた泰様が残っておられ、王様の後をつがれましたが、7月12日には蘇定方によって都城が包囲されましたので、泰様は開城を余儀なくされ、降伏されました。それを聞いて、もはやこれまでと、7月18日に唐軍に義慈王様は投降され、百済は滅亡したのです。その後は、王様をはじめ、13人の王子様と大佐平沙宅千福様ら37名。あわせて50余名が唐の皇帝、高宗の前に引き立てられたそうでございます。王様の命も危ういと思われていましたが、意外にも唐の皇帝から恩勅を賜り、放免されたそうです。しかし王様は憤懣やるかたなく、心労で倒れられ病死されました。高宗は、王様の臣下に葬列に参加することを認められ、呉の最後の皇帝であった孫日告と、陳の王であった陳叔宝の墓の側に王様を葬り、碑を建てて、礼遇を尽くしたそうです。そのあとは、唐が百済をことごとく平定し、百済は6州に分けられ、百済の王族は東都に献ぜられたそうです」
佐平貴智の話を聞き終わると、 豊璋は、自分を待ち受けている状況が厳しいことを知った。一つ心を慰められたのは、父が屈辱的な死に方をしたわけではないことだけだった。自分の一族は、唐の皇帝に手なづけられてしまっているようだ。
「残念ながら、百済の重臣でありながら、新羅に寝返って、官位を授けられ、栄華を極めているものもおりますが、鬼室福信様のように、義兵を募って、抵抗を続けている者も大勢います。達率だった黒歯常之様は、唐軍の捕虜となりましたが、唐軍の暴虐を見るに見かねて、任存城に逃げて義兵を募ったところ、3万人も集まったそうでございます。これにはさすがの蘇定方の軍は手も出せず、退却したので、勢いついた復興軍は、200もの城の奪還に成功したのです。しかし、この勢いは長くは続きませんでした。高宗が新たに王文度を派遣して、援軍を送ったため、10月には一旦取り戻した城も取り返され、黒歯常之様は1500名の義兵と共に斬首されたということです。今も残って抵抗を続けているのは、佐平鬼室福信様と、僧侶どうちん様でございます。みなが心を一つにして戦うためには、 豊璋様を王としてお迎えしようということになってのです」
  日本に来るときは、航海している間中船酔いに悩まされたが、血なまぐさい話を聞いていると、船酔いもしなかった。

参考文献 全栄来 「百済滅亡と古代日本」雄山閣

著作権所有者:久保田満里子

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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