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青い目の山田君

山田君と初めて会ったのは、去年の8月のことだった。

 去年の8月、銀行のコンサルタントとかいう人から電話がかかり、もっと有効にあなたの預金の運用ができるようにアドバイスをしますから来てくださいといわれた。もしかしたら詐欺師からの電話ではないかとおっかなびっくり銀行に行くと、背広を着て、紺色のネクタイを締めた30歳にもならないような青い目の好青年が私を待っていた。その青年が名刺を私に差し出しながら、「デイビッド山田です」と言うので、「えっ?」と思って、もう一度その青年の顔をまじまじと見た。青い目をして金髪のその青年は、どう見ても白人である。「山田って、日本の苗字だけれど、もしかしたら、あなたの先祖に日本人がいるの?」と聞くと、その青年はにっこり笑って、「ええ、うちのひいおじいちゃんが日本人だったんですよ」と言う。

「ひいおじいさん?じゃあ、もうかなり前に日本人がメルボルンにいたって訳ですか?」

 私は自分の無知をさらけ出してしまった。だって、日本は1854年まで鎖国をしていたわけでしょ?そして、1901年にはオーストラリアは白豪主義の政策をつらぬいて、日本人のような黄色人種を受け入れなかったと聞いているから、この青年のひいおじいさんと言えば、1868年から1901年までに間にオーストラリアに入国したって言う計算になる。

「ええ。でも僕のひいじいさんはメルボルンではなくて、ジーロングに住んでいたんですけれどね」

「で、あなた、日本語、話せるの?」と聞くと、

「残念ながら、話せません」

 私は自分の預金の話より、山田君の家系に興味を持った。

だから彼が私の今の預金の仕方では、預金をし始めた導入時のボーナスの利子がでつかないから、一旦預金をおろして新たに預金をしたということにしましょうと、その手続きをしてくれた後、彼を質問攻めにした。

「ひいおじいさんは、どうしてジーロングに来たの?」

「ジーロングで何をしていたの?」

私がしつこく聞くものだから、山田君は苦笑いながら、

「うちのおばあちゃんに聞けば、ひいおじいちゃんのことが分かると思いますからおばあちゃんを紹介してあげましょうか?おばあちゃんはひいおじいちゃんと血のつながりはないけれど、ひいおじいちゃんの息子と結婚して、ひいおじいちゃんの面倒をよく見ていたそうですから」と言ってくれた。私が日本人のせいか、山田君は私に親近感をもってくれたようだ。好奇心の塊になっていた私は、喜びで顔を綻ばせて

「そうしてもらえると、うれしいな」と答えていた。

 山田君が取り付いてくれたおかげで、山田君のおばあさん、山田ローズさんにその翌週の日曜日に、会うことができた。

 山田ローズさんは、90歳はゆうに越えているだろう。白髪でしわの目立つ顔ではあるが、鼻筋が通ってくりくりとした青い目の人で、若かりし頃はさどかし美人だったのだろうと思われた。しかしローズさんの記憶は90歳とは思えないくらい、鮮明だった。

 ローズさんは、「デイビッドから聞いたけれど、あなたは私の義父に興味を持っているんですって?」と開口一番に聞いた。

「ええ。私、歴史には興味があるんです」と言うと、本棚から古びたアルバムを引っ張り出してきて、テーブルの上に置いて、「これが義父よ」と指差して見せてくれた写真はセピア色だった。痩せて長細い顔に丸い黒縁のメガネをかけた日本人青年が立っている側に、はにかんだような笑いを浮かべているウエディングドレスの白人女性が椅子に座っていた。

「これは夫の両親の結婚式の写真よ」

「お義父さんはいつオーストラリアにいらっしゃったんですか?」

「1897年に来たと言っていたわ。そのころ日本は徴兵制があったので、兵隊に借り出されるのが嫌で、オーストラリアに密航してきたんですって」

「お義父さんは何をされていたのですか?」

「クリーニング屋だったの。義父の代のころは、日本人のクリーニング屋って多かったのよ。シドニーなんて23人もクリーニング屋を経営していた日本人がいたらしいけれど、このジーロングだって、義父と同年代くらいの日本人のやっているクリーニング屋って、3軒もあったのよ」

「そうですか。それじゃあ、山田さんのおうちは代々クリーニング屋さんをやっているってことですか?」

「そう。でも、第二次世界大戦が始まった時は大変だったわ。その時、すでに義父は74歳で、リュウマチもあって、寝たり起きたりしていたのよ。ところが、アメリカが日本から真珠湾攻撃を受けると同時に、オーストラリアは日本に宣戦布告をしたの。だから、その日のうちに義父は抑留されて、収容所に送られてしまったのよ。義母はオーストラリア人だったから収容所に送られずにすんだんだけれどね。それから夫と私はクリーニング屋を守っていくので大変だったのよ。『ジャップ帰れ!』と怒鳴る人たちに店に石が投げられて、窓ガラスを割られたのも一度や二度じゃなかったの。でも、オーストアリア人が皆が皆、私達を迫害したわけではないのよ。隣近所の顔見知りの人たちは、皆以前と変わらずつきあってくれたので、何とか生き延びれたの」

「収容所って、どこにあったんですか?」

「タチュラってメルボルンから180キロ内陸に入ったところ。シェパトンって知っている?」

「行ったことはないけれど、聞いたことはあります」

「そのシェパトンの近く」

「お義父さんが収容所にいらしたときの写真が、ありますか?」

「一枚だけ、あったわ」と、ローズさんがそのアルバムを数ページめくると、バラック小屋の入り口に座っている上半身裸の老人が写っている写真があった。

「これが、収容所にいた頃のお義父さんの写真よ」

まぶしそうに顔をしかめている老人の足元に、たくさんの下駄が脱ぎ散らかっているのが目に入った。

「オーストラリアの収容所では、下駄が配給されていたのですか?」と不思議そうな顔をして言う私を見て、ローズさんは吹き出した。

「まさか。これはね、収容所に入っていた人の中で手先の器用な人がいて、その人が皆に下駄を作ってくれたのよ」

「へえ、それじゃあ、日本のように小屋の中には土足で入らなかったってことですか?」

「そうみたい。それに関して義父からおもしろい話を聞いたわ。オーストラリア国内の敵国捕虜の扱いについて調査をしに来た国際赤十字団の人に、抑留者から一つだけ不平がでたんだそうだけど、何だか分かる?」

私はとっさに、

「食べ物を十分に与えられないということですか?」と聞いた。

日本でも戦争中は食糧不足で国民全員が大変な思いをしたと聞いていたから、きっと食料への不満が出たのだろうと私は推測したのだ。

すると、ローズさんは頭を横に振って、

「そうじゃないのよ。食べ物はふんだんに与えられて、待遇は悪くなかったっていうことだわ」

「それじゃあ、何が不満なのか、ちょっと見当がつきません」と私は、すぐに降参した。

「それはね、看守が土足で小屋に入ってきて、検査をすることだったの。看守に土足で上がらないでくれと何度も頼んだけれど無視されたと言って、文句を言ったらしいわ」

私は思わず笑ってしまった。だって、看守に暴行を受けたとかというのなら分かるが、そんな非常時に靴を脱がないなんていうことが唯一の不満だったなんて、とてもユーモラスに思われたからだ。

「お義父さんは、それでは収容所で亡くなられたんですか?」

「いいえ。でもね、タチュラって、何しろ内陸部でしょ?夏は暑いし、冬は冷え込むのが辛かったらしいわ。暖房は火事になったら困るというので全く許されなくて、空になった灯油缶に熱湯を入れてベッドの中に隠し持っていたこともあるけれど、すぐに見つかって取り上げられたそうよ。段々体も弱って動けなくなって、1943年の5月に釈放されたの。戦争が終わる2年くらい前ね。釈放の条件は月に一回警察に報告することと、家の5キロ範囲外に出てはいけないことだったのよ。クリーニングの仕事にかかわらないことも条件だったけれど、義父はとてもじゃないけれどクリーニングの仕事ができる状態ではなかったわ。ほとんど寝たきりだったんだから。でも、一度だけ義父に頼まれて警察に内緒で外へ連れ出したことがあるの」そういうローズさんは、いたずらっ子のようにニコッとした。

「どなたかのお葬式にでもいらっしゃったのですか?」

ローズはクスクスと笑い、

「そうじゃないの。映画を見に行ったのよ」

「映画ですか?どんな映画です?その頃日本の映画でもやっていたのですか」

「義父が見たがったのは、『風と共に去りぬ』なのよ」

私は驚いて、思わず聞き返した。

「あのアメリカの南北戦争を舞台にした恋愛映画ですか?」

  「そうなの。あの時は、警察に見つかればまた収容所に送り返されるとびくびくしながら出かけていったんだけれど、幸いにも警察に密告する人もなくて、無事に見て来れたの」

写真から見ると朴訥な感じのする山田氏がロマンチックな映画を見たがったと聞いて、私は突然山田氏に親近感を覚えた。

 ローズさんはそれから遠くを眺めるような目になって、「義父はそれから間もなく亡くなったから、日本が敗戦したことも知らないのよ。もっとも義父は、日本が勝っても負けてもどっちだっていい、早く戦争さえ終わってくれればと言っていたけれど」と言った。そしてため息をつきながら、

「義父はね、それでもラッキーなほうだったのよ。加藤常吉さんと言うクリーニング屋に勤めていた72歳の人は、強制送還されてしまったわ。常吉さんは独身で、オーストラリアには40年以上もいて、日本には知っている人一人もいなかったの。常吉さんが抑留される前に常吉さんを雇っていたクリーニング屋の中国人の経営者が、常吉さんの老後の面倒は見るから常吉さんをオーストラリアにいさせてほしいとオーストラリア政府に嘆願書も出したんだけれど、聞き入れられなくて、常吉さんは泣く泣く船に乗せられたわ。日本に帰って、すぐに亡くなったと言うことだけれど」

「お義父さんが釈放されたのは、奥さんがオーストラリア人だったからですか?」

「そう。アングロサクソンの奥さんや夫を持つ人とオーストラリア生まれの人は、オーストラリアに残ることを許されたの。だから、オーストラリア生まれの子供達をオーストラリアに残して、強制送還された日本人夫妻もいたということよ」

 ローズさんの話を聞いた後、私は、戦争中オーストラリアにいた日本人の苦難を思いやり、心が鉛のように重くなった。今オーストラリアに住んでいる日本人の私は、何年住んでもこの国では外国人だと思っている。だから、第二次世界大戦中にオーストラリアにいた日本人のおかれた状況は、他人事とは思えなかった。このまま日本とオーストラリアが今のような平和な関係をいつまでも続けてくれることを願わずにはいられなかった。

(参考文献:永田由利子著 Unwanted Aliens 豪州日系人強制収容 University of Queensland Press, 1996年)

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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