飛鳥の麗人(2)
更新日: 2016-02-28
天智天皇が崩御されて1ヶ月も経つと、額田王の耳に不穏なうわさが耳に入ってくるようになった。
「大海人皇子が、乱を起こされるそうだ」
自分には天皇の位など興味はないと言って吉野に隠遁したはずの大海人皇子だが、今は皇子の后となり、大海人皇子について吉野山にいった野心満々の鸕野讚良(うのささら)皇女(後の持統天皇)が、一生吉野の山奥に引っ込んでいるとは、額田王には思えなかった。大海人皇子は物静かな大田皇女を寵愛されていたが、大田皇女は病気で亡くなられ、その後は同じ同母姉妹とは思えない大田皇女の妹で勝気な鸕野讚良皇女を寵愛されるようになった。大友皇子と鸕野讚良皇女はどちらも天智天皇の御子とは言え、大友皇子の母親が伊賀の豪族の出なのに対して、鸕野讚良皇女の母上は名門蘇我一族の出である。母親の出自がものをいう時代だから、鸕野讚良皇女は、大友皇子を目下に見るきらいがあった。その頃の貴族は年少の頃は母親に育てられるので、同母兄弟ならともかく、異母兄弟は他人同然である。大友皇子に対する反感はあっても、好意を持っているとは言えなかった。
大海人皇子が、大友皇子と一戦を交えるとなれば、十市皇女にとっては、父親と夫の対戦になり気も休まらないだろうと、額田王は気が気ではない。大海人皇子には10人の后から22人の子供が生まれているが、初めての子供の十市皇女が可愛くないはずはない。額田王は、戦のうわさを耳にすると、すぐに十市皇女に会いに行った。
しばらく部屋で待たされ、衣擦れの音が聞こえてきたかと思うと、十市皇女が現れたが、顔は憂いをおび、焦燥していることがすぐに見て取れた。
「母上様、お久しぶりでございます」と、十市皇女は手をついて挨拶をした。
「ええ、天皇が崩御された時以来ですね。最近は父上から何か便りでもありますか?」と、額田王が探りを入れると、十市皇女は悲しそうに首を横に振った。
「いいえ。母上は何か父上から聞かれましたか?」
額田王は思わず苦笑をしてしまった。
「そなたの父上とは、もう3年も会っていません」
「ということは、蒲生野の狩以来、会っていらっしゃらないのですか」
「ええ」と答えながら、天智天皇主催の狩の余興の席で歌った歌のことを思い出した。
あかねさす紫野ゆき標野ゆき野守は見ずや君が袖振る」
(茜色を帯びる、あの紫草の野をいき、標野を散策しているわたしにあなたは袖をおふりになられていますが、野守にみつかってしまいますよ)
と額田王が詠うと、すぐに大海人皇子から、歌がもどってきた。
紫野にほへる妹を憎くあらば人妻ゆえに吾恋ひめやも
(紫草のように美しい君をすきではなかったら、もう人妻になっているのにこんなに恋しいと思うわけがない)」
あの頃は、まだお互いに対する気持ちがくすぼっていたように思うが、今の状況では、そんな気持ちも吹き飛び、ただただ十市皇女の身が心配である。
「本当に父上は攻めてこられるのでしょうか?」
「攻めてこられる可能性は大いにあります。父上のそばにいらっしゃるのは鸕野讚良皇女様。皇女様には父上との間に草壁皇子がいらっしゃいます。きっと野心家の鸕野讚良皇女にとって、大友皇子が天皇になることは我慢のならないことでしょう。もし大友皇子が天皇に即位されれば、草壁皇子が天皇になれるチャンスは皆無となりますから」
「でも大友皇子と鸕野讚良皇女は、ご兄弟ではありませんか」
「そなたの父上も天智天皇も、舒明天皇と斉明天皇の皇子、同じ母君をもつご兄弟です。権力争いは血で血を洗うもの。このさい、大友皇子を信じて、大友皇子に従う以外ありません。そなたの役目は葛野王を守ることです」
十市皇女は、うつむき、悲しげに
「どうして皆権力のために命を懸けて戦わなくてはならないのでしょうか」と、つぶやいた。
「それほど、権力というものは、魅力のあるものなのでしょう。天智天皇も即位される前には、天皇家をしのぐほどの権力をもっていた蘇我入鹿を暗殺し、ライバルだった
異母兄の古人皇子、母君の弟君であった先の孝徳天皇の皇子の有間皇子をすべて謀反の疑いがあるという名目で殺されました。権力というものは、恐ろしいものです」と、額田王は答えた。
「ともかく、父上に手紙をしたためてはいかがですか」と、十市皇女にすすめて、1時間後には、額田王は自分の館に戻った。
実際に額田王と十市皇女の不安が現実のものとなったのは、天智天皇の死後半年後だった。いわゆる、壬申の乱である。吉野山を出た大海人皇子の率いる兵の数は当初20人ばかりだった。
大海人皇子が兵を率いて吉野山を出たというニュースを聞き、額田王は、すぐに十市皇女のもとに駆けつけたが、十市皇女は思ったより落ち着いていた。
「父上のことも心配ですが、母上のおっしゃるとおり、私にとっては葛野王を守ることが一番大事なことです。ですから、私は大友皇子に従っていくことにしました。大友皇子は、父上の率いる兵の数はしれたもの。だから、都に入る前に決着がついているだろうと言われました」
「父上には、手紙を書いたのですか?」
「書きましたが、何もお返事が来ませんでした。母上はきっと父上を応援していらっしゃるのでしょうね」
十市皇女が探るような目で額田王を見た。
「そなたの父上は、もう私とは縁の切れたお方。今の私にとっては、そなたの身が一番心配です」
たぶん10年前だったら、こんな言葉は出ては来なかっただろう。その頃は恋に生きていたのだから、娘のことは二の次だった。しかし45歳になった額田王にとって、昔の恋人は、遠い過去の人となっていた。
比較的落ち着いていた十市皇女を見て、額田王も安心した。
著作権所有者:久保田満里子