ケリーの母(5)
更新日: 2016-04-17
次の日の朝、ビルは約束通り、ジェラルドの住所を書いた紙を持ってきてくれた。そして、一枚の写真をケリーに渡した。
「これは、あんたのお母さんとお父さんの写真だ」
そこには、軍服を着た若き日の父と、サザエさんのようなパーマをかけた髪形をして、白いブラウスと足元まで隠れるような紺の水玉模様の長いスカートをはいた母が、仲睦ましそうに寄り添って立っていた。
「それは、あんたに上げるよ。僕が持っていたって仕方ないから」と、ビルが言った。
ケリーはものめずらしそうにその写真をしばらく眺めていたが、「ありがとう。それじゃあ、もらっておきます」と言って、かばんの中にしまった。
清子は、ケリーが誠の運転する車に乗り込もうとすると、別れを惜しんで、ケリーの両手を握って、「また、来んさいよ」と何度も言った。
ケリーは、帰りの飛行機の中で、近いうちに父親を尋ねてみようと決心をした。
帰ってからも、大学に提出しなければならない書類の数々、助成金の申請、そして論文の締め切りなどに追われ、そのケリーの計画が実現したのは、日本から帰ってきて1ヶ月経ってからのことだった。
いざ手紙を書こうとすると、60年も会っていない父親に、どんな手紙を書けばいいのか迷い、しばらくペンを握ったまま、考え込んでしまった。「初めまして」などというのは、勿論おかしいし、「親愛なるパパ」とも書けない。結局は、書き上げてみると、無味乾燥な事務的な手紙になってしまった。
「私は、あなたの息子のケリーです。一ヶ月前に日本に行き、ビル・モーガン氏と会い、ビルからあなたの住所をもらいました。一度お会いしたいのですが、来月の週末で時間のある日をお知らせください。
ケリーより」
ケリーは、手紙を投函したものの、この手紙が父親の手元に果たして届くだろうかと多少の不安を感じた。何しろ、ビルは父親とはこの5年間音信不通だといっていたのだから。父は、もう亡くなっているかもしれない。いや、生きているだろう。でも、生きていても老人ホームかどこかに入ってしまって、この手紙は届かないのではないか。そんなことを考えながら、返事を待った。ケリーの不安はすぐに消えた。手紙の返事が1週間もしないうちに来たのだ。
「ケリー
お前のことは、毎日思い出していたよ。お前は立派な学者になったようで、お前のような息子を持ったことを実に誇らしく思っている。
お前に手紙を書こうと何度も思ったが、お前を捨てたような形で別れてしまった私には、いまさら父親面して、お前の前に現れるのは気恥ずかしくてできなかった。
来月の最初の土曜日に我が家に来てくれないかね。正午に来れば、一緒に昼ごはんが食べれる。お前の腹違いの妹になるレオーニーもお前に会いたがっていたから、レオーニーを呼んで一緒に昼食を食べよう。
手紙をもらって、本当に嬉しかったよ。ありがとう。
それじゃあ、近いうち会えることを楽しみにしている。
ジェラルドより」
ケリーは、「父より」と書かないで、「ジェラルドより」と書いている父親の胸のうちを思いやった。きっと自分には父親と名乗る資格がないと思っているのだろう。
ジェラルドの家に行く日、ケリーは近くの酒屋に寄ってワインを買った。いつも誰かに食事に招待された時は、ワインを持っていく習慣があったが、その日は、高級なワインを3本買った。ケリーの覚えている父親は、ワインの好きな人だったからだ。その後、花屋に寄り、花束をレオーニーのために買った。
ジェラルドの家は、ジーロング郊外の静かな住宅地にある木造の小さな平屋だった。その家の前に車を停めると、心臓がどきどきしているのを感じた。まるで、入社試験を受けに行くような気持ちだった。ジェラルドはどんなに変わっているだろうか?妹のレオーニーは、どんな人間だろうか?いろんな想像を膨らませながら、家のドアをノックすると、待っていたかのように、ドアはすぐに開かれた。ドアの向こう側に立っていたのは、太った人のよさそうなおばさんだった。
「レオーニー?」と聞くと、
「ええ、私はレオーニーよ。ケリー、よく来てくれたわね」と言うと、レオーニーはケリーを抱いて、ほっぺたにキスをした。
ケリーが花束をレオーニーに渡すと、レオーニーは嬉しそうな顔をして、「ありがとう」と言った。
「お父さんが待っているわ」
レオーニーが案内してくれた客間には、髪の毛が薄くなった、やせ細った老人がソファに座っていた。そして、ケリーを見ると、嬉しそうな顔をして、
「ケリーか、よく来てくれたな」と、杖を突いて立ち上がろうとした。
「お父さん、そのままでいいよ。座っていて」ケリーは「お父さん」と言う言葉が自然と口をついて出たことに、我ながら驚いた。そして、ジェラルドの肩を抱いた。ジェラルドは、ケリーの体のぬくもりを感じながら、「お前もえらくなったな」と感慨深げに言った。そして、「お母さんは、元気かね」と、聞いた。ケリーは、すぐには答えられなかった。しばらくして、「お母さんは去年亡くなりました」とかすれるような声で答えた。ジェラルドは、ケリーのそんな様子を見て、「そうだったのか」とだけ、一言言った。
昼ごはんはレオーニーが作ったローストビーフだった。レオーニーは料理上手の陽気な女だった。
「私、一度あなたに会ってみたかったの。だから会えてうれしいわ。お父さんたら、あなたのことが書かれている新聞記事を見つけると、すぐに切り抜いて、スクラップブックを作っているのよ」
ケリーは苦笑いをしながら、
「そんなことを聞くと、なんだかスーパースターになったみたいな錯覚を受けるな」
「お父さんにとっては、あなたはスーパースターなんだもの」
二人の会話をニコニコしながら、ジェラルドは聞いていた。ケリーの持ってきたワインは、どんどん消費されて行き、いつの間にか3本が空になってしまっていた。
ケリーは酔って来ると、最初のぎこちなさがどんどんとれて行き、ジェラルドにどうしても聞きたくてたまらなかったことを聞いた。
「お父さんは、どうしてオーストラリアに戻ってきたんですか?どうしてビルのように、日本に残らなかったんですか?」
著作権所有者:久保田満里子