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ああ、モンテンルパの夜はふけて(前編)

 戦争の話と言えば悲惨きわまるものと言う私の先入観を覆すような、心温まる話に出会った。皆さんにもこのお話をお伝えしたいと思い、書いてみた実話に基づくフィクションである。

 人気歌手の渡辺はま子は、NHKラジオ「陽気な喫茶店」の司会をしていた松井翠声から渡された手紙を読み返した。1952年のことである。手紙の送り主は加賀尾秀忍となっていた。

「突然お便りをするご無礼をお許しください。私はフィリピンのマニラ郊外にあるモンテンルパ刑務所の教誨師をしていた加賀尾秀忍と申します。皆さまご存知ないかもしれませんが、この刑務所には、戦後7年たった今も、日本人のB級C級(注:A級とは平和に対する罪、B級は人道に対する罪、C級は、捕虜の虐待などの戦争犯罪)の戦犯150名が収容されています。今年1月19日に14名が処刑されました。そのうち13名はセブ島での村民虐殺事件にかかわったと言う罪状でしたが、私が彼らから聞いたところによると、そのうちの半数近くがセブ島などに行ったこともないというのです。フィリピン政府は日本政府に対して80億ドルの賠償を要求していましたが、アメリカがサンフランシスコ講和条約で無賠償にしたことに対する腹いせから、突然死刑が執行されたと戦犯たちは言っております。真偽のほどは私には分かりませんが、フィリピンの刑務所で悲惨な状況で絶望的な気持ちで過ごしている人たちがいることを、日本の皆さんに知ってもらいたいと思います。そこで、渡辺はま子さんに是非戦犯の気持ちを歌った歌を歌ってほしいと思い、死刑囚の元憲兵、代田銀太郎氏に作詞をしてもらい、元将校の伊藤正康氏に作曲をしてもらった『ああ、モンテンルパの夜は更けて』の楽譜をお送りします。…」

はま子は、早速同封されていた楽譜を見ながらピアノでメロディーを弾き、歌ってみた。

「モンテンルパの夜は更けて、つのる思いにやるせない。遠いふるさと忍びつつ、涙に曇る月影に、やさしい母の夢を見る

つばめはまたも来たけれど、恋し我が子は、いつ帰る。母のこころは一筋に南の空へ飛んでいく。定めは悲し呼子鳥

モンテンルパに朝が来りゃ 昇る心の太陽を、胸に抱いて、今日もまた 強く生きよう 倒れまい 日本の土を踏むまでは」

はま子は歌っていて、胸にジーンときた。はま子自身収容所暮らしを経験している。陸軍の要請で、中国に派遣されていた兵士の慰問訪問をしていたはま子は、天津で終戦を迎えた。それから天津での1年間の捕虜生活で、毎晩不安と望郷の念に苛ませられたのを思い出したのだ。曲を歌い終わって、思わず涙ぐんだ目を拭いていると、いつの間にかそばに来て耳を傾けていたディレクターの磯部が 「悲しみが胸に迫ってくる曲ですね。何と言う曲ですか?」と聞いた。はま子が事情を話すと、「この曲をレコードにしましょう」と言ってくれた。その年の7月に発売されたこの曲は、またたくまに20万枚を超えるヒット曲となった。

この歌がきっかけになってはま子は加賀尾と知り合った。

 はま子は加賀尾に会うたびに、「モンテンルパの収容所に行って、戦犯の皆さんを慰問したいのですが」と言ったが、国交も復活していないフィリピンに行く手だてがなかった。加賀尾はこの歌が日本国民の間に浸透していくのをばねにして、精力的に囚人たちの助命嘆願のための署名運動に乗り出した。その成果があって、500万名もの署名が集まった。

はまこのモンテンルパ刑務所慰問の願いがかなったのは、1952年12月24日のことだった。はま子は直接フィリピンに行くのは難しいと判断して、まず香港に飛び、香港経由でフィリピンに入国をした。

この日、マニラ空港に降り立ったはま子を、元駐日大使のデュランが出迎えてくれた。デュランははま子のファンだった。その日は12月と言えども、マニラは40度にもなるムンムンするムシ暑い日だった。収容所に着くと、ステージには『歓迎 渡辺はま子さま』という横断幕がかかっていた。はま子は、すぐに作曲者の伊藤正康と作詞者の代田銀次郎と会った。二人は、はまこに「自分たちの歌を歌ってくださってありがたいです」と言うと、深く頭を下げた。そんな二人に、はま子は「いえ、こちらこそ素晴らしい曲を作ってくださってありがとうございます」と礼を言った。この時はま子は初めて二人に会ったのだが、全くの初対面と思えないほど、歌を通しての心のつながりを感じた。

ステージに立ったはま子の前には、期待に目を光らせてはま子を待っていたやせ細った囚人たちがいた。その120名ばかりの男たちの目がはま子に注がれていた。

「皆さん、やっときましたのよぉ」と言うはま子のハリのある声が会場に響き渡ると、客席から熱狂な拍手が沸き起こった。その拍手の渦は皆がどれほどこの日を待ち焦がれていたかを感じさせるものだった。はま子は、ドレス姿でまず彼女のヒット曲「蘇州夜曲」や「シナの夜」を歌い、途中で振袖に着替えて、暑い中を汗だくになりながらも、「荒城の月」「浜辺の歌」を歌った。一曲終わるたびに拍手の嵐が湧き起こった。いよいよ最後に「ああ、モンテンルパの夜は更けて」を歌うことになった。はま子が歌い始めると、会場のあちらこちらから斉唱の声があがり、最後にはその歌声は大きなうねりのように会場にとどろいた。どの顔も涙で濡れていた。はま子自身、涙で声が詰まりそうになるのを必死に耐えて最後まで歌いぬいた。

曲が終わり、「皆さん、お別れの時間となりました」と別れの挨拶をしようと思っていたはま子のそばにデュランが寄ってきて、「君が代を歌いなさい」と言った。はま子は驚いてデュランの顔をまじまじと見た。天皇が戦争の元凶だと思われていた中で、日本軍によって被害を受けたフィリピンで天皇をたたえる歌を歌うことは、とうてい許されることではない。躊躇{ちゅうちょ)したはまこが見たデュランの顔は真剣そのものだった。「私が責任を持ちます」と言うデュランの力強い言葉に胸を打たれたはま子は、「皆さん、君が代を歌いましょう」と囚人たちに呼びかけた。すると、全員起立をして直立不動の姿勢をとると、日本のある北に向かって。皆が歌い始めた。涙で声がかすれている者も多く、中には感激のあまり途中で泣き崩れてしまう者もでた。皆君が代には万感の思いがあった。その歌を最後にしてコンサートは終わり、はま子は、もうこの人たちに会うことはないのだと思うと、後ろ髪をひかれる思いで、日本に帰国した。

参考文献

「プリズンの満月」吉村昭 新潮文庫

文芸春秋2015年9月特別号「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 抄録 岡部長景「巣鴨日記」210-225ページ

文芸春秋2015年9月特別号 「大特集 「昭和90年」日本人の肖像 A級戦犯・木村兵太郎(刑死)長男の訴え 父を靖国から分祀してほしい」198-205ページ

インターネット検索

「ああ、モンテンルパの夜は更けて」ウイキペディア

「ああ、モンテンルパの夜は更けて」解説

JOG180渡辺はま子 伊勢正臣

渡辺はま子 ウイキペディア

ご存知ですか、見分「モンテンルパの夜は更けて」~BC級戦犯の命を救った人

 

著作権所有者:久保田満里子

 

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2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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