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悲劇の友

「おかあさ~ん」と子供が泣いて抱きついてくる。その子を抱き上げたいのに、金縛りにあったように体が動かない。何か言おうにも声がでない。子供を助けなくっちゃと、もだえ苦しんでいると、ぱっと目が覚めた。

「ああ、夢だったのか」と志信は安堵のため息をついた。

志信は、抱きついてきた子供のことを思い出していた。夢の中で抱きついてきた子は、自分の娘、楓ではなかった。裕子の娘の由香だった。寝る前にインターネットを通して裕子と話したのが、悪夢の原因だったことに思い至った。

楓が生まれて間もないころ、志信は楓の世話で忙しく、外に出る機会もなく、周りに友達が一人もいなかった。楓に母乳を与え、おしめを変えて、掃除洗濯で一日が終わる。「ああ、今日も夫以外の大人と話す機会がなかった」とため息をついたのは一度や二度ではなかった。勿論楓は可愛い。寝顔をいつまでも見飽きることもなく眺めている時は、母親としての喜びを感じる。でも、毎日が同じことの繰り返しに耐えられなかったのだ。そんな毎日をすごしていた志信は、ラジオでインターネットで孤独なお母さんたちのためのネットワークがあると聞き、すぐにそのクラブに加入した。裕子とはそのクラブで知り合った。裕子にはすぐに惹かれていった。惹かれたという表現は正しくない。裕子のことが気になってならなくなったのだ。それは、志信が裕子に自分の母親を思い重ねたからだろう。志信の母親は、志信が5歳のときに死んでいる。志信の記憶に残っているのは、胃癌にかかって、痛みにのたうちまわる母親の姿だった。母親がなくなった時の喪失感は、20年以上経った今でも鮮明に覚えている。だから、裕子の「私は末期の大腸がんにかかっていて、医者からもう3ヶ月の命だと言われました。私には2歳の娘がいます。この2歳の娘を残して死ななければいけないのかと思うと、死んでもしに切れません」と言う言葉に、胸をつかれたのだ。裕子の娘が20年前の自分と同じ立場におかれているのかと思うと、他人事とは思えなかった。志信はメルボルンに住み、裕子は横浜に住んでいたが、二人の友情は距離とは関係なく、この一年深まっていった。知り合った時、あと3ヶ月の命だと言われた裕子は、幸いにもまだ生きている。

裕子と知り合ってからの志信の日課は、裕子との交信を中心に回ったと言っても過言ではない。

最近は、朝3歳になった楓を幼稚園に送って家に帰ると、すぐにコンピュータに向かって、裕子と交信する。そして掃除洗濯をして家事を済ませて昼ごはんを食べ終えると、また裕子とインターネットを使ってカメラを見ながら話す。裕子には両親も兄弟もいないという。頼りになるはずの夫も、裕子の発病とともに険悪な関係となり、離婚を迫られているという。なんと冷酷な夫だろうと、志信は裕子の夫に対して激しい憤りをおぼえた。毎日裕子の病状を聞いて、裕子を慰める。時には泣きながら夫の非情をなじる裕子と一緒に涙を流した。夕べも裕子と交信したのだが、裕子は抗がん剤の副作用で髪の毛がなくなり、青い顔をしていた。そんな裕子に由香がじゃれついていた。

  その日も楓を幼稚園に送っていって帰ってくると、すぐにインターネットを開いた。しかし、志信が裕子に何度電話しても、通じない。

「もしかしたら?」と思うと、その日はご飯も喉を通らなかった。不安な日が3日続いた。そして3日目にインターネットのいつものサイトを開けると、志信の目に

「裕子の友人、神崎博子より」と言う字が飛び込んできた。裕子でなくて、どうして今まで聞いたこともない裕子の友人が裕子の代わりに出てくるのだろうと、一瞬不思議に思った。そして、その続きを読んでいくうちに、志信の顔色が変わっていった。

「裕子さんは3日前病状が悪化して、今朝の5時に永眠しました」

裕子が死んだ?志信は信じられなかった。確かに3日前にコンピュータのカメラを通してみた裕子は見るからにつらそうだったが、そんなに症状が急変したとは思われないし、思いたくもなかった。裕子との交わした最後の会話を何度も思い出した。

「もう、このまま死んでしまうのかと思うと、悔しいわ」

「そんな弱気を起こしちゃ、由香ちゃんがかわいそうじゃない。由香ちゃんのためにも癌に負けてはだめよ」志信がそういって励ますと、「そうね。由香のために死んじゃ、いけないわね」と、裕子は弱弱しい笑みを浮かべた。

そして、「また明日」と言って、交信を終わったのだ。

裕子がとうとう死んでしまったのだと言う実感がわくまでには、かなりの時間がかかった。それから裕子の友人に裕子の最後の状況を聞こうと思い立ち、メールを出したが、その日を境に、裕子の友人からの通信も途絶えた。

今まで、裕子のために心を尽くした志信は、まるで恋人を失ったように、心に空洞ができ、段々うつ状態になっていった。由香はどうなったのだろう?由香の事も気になる。だから楓や夫の隆が話しかけても、ぼんやりとして答えないことが多くなった。

そんな志信を心配して、隆が言った。

「裕子さんのお墓にでも参ってきたら、気持ちが治まるんじゃないか?今の君を見ていると、まるで魂を失った亡霊みたいだよ。横浜に行って来いよ」

 志信も隆の言葉に動かされて、楓を連れて、裕子の家がある横浜に行ってみようと決心した。裕子の娘の由香がどうしているのかも知りたい。ところが裕子の家の住所を聞いたことがないことに気づいた。裕子が入院していた病院は横浜にある大槻病院と言ったことだけは覚えている。大槻病院に行って聞けば、裕子の住所も分かるだろう。

思い立ったが吉日で、その1週間後には、志信は楓を連れて、羽田空港に降り立った。羽田からすぐに大槻病院に向かった。大槻病院の住所はインターネットで調べておいたので、すぐに分かった。個人の家ではないので、タクシーに乗れば、すぐに連れて行ってもらえるだろう。そう考えて、タクシーに乗った。大槻病院は駅から15分のところにある新しい病院だった。

 病院の入り口を入るとすぐに待合室になっており、受付は、その奥にあった。待合室には年取った患者で溢れていた。待合室はまるで老人の社交の場のようで、自分の病気の愚痴を言い合っているのがここかしこで聞こえた。

受付に行くと、志信は、

「私は牧原裕子さんというがん患者さんの友人ですが、牧原さんが先日亡くなられたと聞いたので、おうちにご焼香に伺いたいのですが、牧原さんのご住所を教えて頂けませんか?」と聞いた。

「牧原裕子さん?どんなご病気でしたか?」

受付の女は初めて聞く名前のように不審そうな顔をして聞いた。

「大腸がんです」

「癌病棟は、この廊下をまっすぐ行った先にありますから、そこで聞いてください」と言われ、志信は楓の手を引いて、癌病棟に向かった。癌病棟でも志信は同じ質問を繰り返したが、そこの受付でも、「牧原裕子さん?そんな患者さんはいませんでしたよ」という答えがもどってきた。

志信は、何が何だか訳が分からなくなってきた。裕子は、確かこの病院の患者だったはずだ。

その晩泊まった横浜のホテルで、インターネットで裕子の家の電話番号を調べようと思ったが、検索できなかった。

 結局、志信は、裕子の居所を突き止めることができず、日本に1週間いただけで、すごすごと自宅に戻ってきた。戻ってきたときの志信は、行く前よりもうつ状態がひどくなっていた。

 そんな志信を見て、隆は今度は臨床心理士の所に行ってみるようにすすめた。

志信が夫の会社の人に紹介されて訪れた臨床心理士は、にこにことして、やさしそうな50代の男性だった。志信は、この人になら何でも話せそうだと、裕子と知り合った状況、裕子が突然消えたことなどをくわしく話した。志信の話にじっと耳を傾けていた臨床心理学士は、志信の話を聞き終わると、

「その裕子と言う人は、きっとMBIですね」とおだやかに言った。

「MBI?なんですか、それは?」

「Munchausen By Internet,つまり、インターネットを使って、皆の同情を買おうという病気です。現実の世界で友達を作ることができない社交性に欠けた人が、インターネットを使って不特定人数の人の注目を受けて、孤独感を取り除こうというする精神病の病名です。この病気にかかった人は色々な嘘をつくのですが、あなたもそれにひっかかったんですね」

「それは、つまり私は裕子に騙されたと言う事ですか?」

「まあ、そういうことになりますね」

「でも、あとで裕子の友人から裕子の死の通達があったんですよ」

「それも、本人が友人のふりをして書いたんですよ。裕子と言う名前もおそらく本名じゃないでしょう。そして今頃はまた違う名前で、皆の同情を買うような新しい話をでっちあげて、あなたのような人を相手に、自分の作り話をしていることでしょう」

 だまされたと言われても志信はにわかには信じがたかった。しかし、色々な裕子とのやり取りを思い出すと、思い当たることがある。あの髪の毛の抜けた頭ももしかしたらカツラを被っていたのかもしれない。青白い顔にしては、頬がふっくらしていた。あれもそういうメーキャップをしたせいかもしれない。不審だったことが今ではパズルがとけるように、段々分かってきた。それに気づくと志信は、頭に血が上ってきた。

そして「私のこの一年間は何だったのだろう。裕子の嘘を信じて、彼女のために泣き、彼女のために心を砕いたこの一年間は。裕子のためにズタズタになった私の気持ちはどうしてくれるのよ!」

志信は心の中で、そう叫んでいた。

 

 

参考文献 Goodweekend, April 16, 2011 29-30ページ Faking it

 

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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