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さようならジョン(1)

私がジョンと会ったのはもう10年も前のことである。その頃、オーストアリアの大学を卒業して就職口を探していた私は、日本への輸出入品を取り扱っている貿易会社で、社長秘書を募集していると日本人会に加入している友人から聞き、応募したのだ。面接に来いと言われ出かけて、社長室に通された時、ジョンは窓際にある大きな机の椅子から立ち上がり、私を迎えてくれた。背が高く、頑丈そうな体をしているジョンから、エネルギーがムンムンと立ち込めているような印象を受けたのを今でも覚えている。ジョンは、「ハロー」といいながら、握手の手を差し伸べてきたが、その手は厚みがあり、温かかった。緊張して、ジョンの前にそのまま突っ立っていた私に、「そこに座って。そんなに緊張しなくてもいいよ。別に君を煮て食おうというわけではないから」といたずらっ子のように、にっこりと笑った。私はジョンの笑みで少し緊張感が和らいだ。私の方は、英語と日本語のバイリンガルであるということと、コンピューターが少々使えるというくらいで、ほかには何も資格がなかったが、即採用になった。

 仕事は2週間後から始めてくれということだった。リリーという社長秘書が出産のためやめることになり、その後釜に私が採用されたということで、リリーから仕事の内容の引継ぎがあった。その時リリーから「ジョンは整理整頓が好きな人だから、ファイルだけはしっかり保管してね」と耳打ちされた。

 2週間後、初めての出勤日、私はリリーからのアドバイスを念頭に置いて、社長の机の上を整頓しようと早めに出勤したが、社長室の机の上にはきれいに整頓されていて、私が手を入れる必要はなかった。

 朝、ジョンのその日のスケジュールを確認し、ジョンから頼まれた書類の整理をして、ジョンに来客があるとお茶を入れて、初日は無事に終わった。

  二日目も朝8時に出勤した。自分が一番早く来たと思っていた私は、社長室から音楽が流れているので、ジョンはすでに来て仕事をしているのかと思い、ドアをノックした。しかし音楽の音でノックが聞こえないのか、中から返事がない。仕方ないので、そっとドアを開けると、部屋の中では思わぬ光景が展開されていた。ジョンが、ジョンよりは10歳は年上と思われる、背が低くて太っちょの女性と二人でダンスをしているのだ。ジョンの相手をしているのは、はっきり言って、女としての魅力に乏しい女性だった。二人とも夢中でワルツを踊っていて、私が部屋に入ったことに、すぐには気づかなかった。5分くらい過ぎたところで、ジョンは私の存在に気づき、「やあ、キーコ。朝早くから出勤したんだね。ご苦労様」と、私に笑いかけて、ダンスをやめた。そして、一緒に踊っていた女性を紹介してくれた。

「そういえば、キーコはテレサに会うのは、初めてだね。こちらは、テレサ。うちのお茶くみをしてもらっている」

そしてテレサに向かって、「こちらは昨日から僕の秘書をし始めたキーコだ」と紹介してくれた。私たちは握手をしたが、私としては、ジョンとテレサがどういう関係なのかすぐには把握できず、すこし居心地が悪かった。それに社長とお茶くみの女性の組み合わせは、奇妙に映った。それから、毎週月曜日の朝は、ジョンとサリーのダンスの練習は続いた。

 勤め始めて一週間たった頃、朝出勤してきたジョンに、「おはようございます」と挨拶をすると、ジョンは「キーコ、そのまま立っていて」と言って、引き出しから何か布切れのようなものを取り出すと、そのまま立っていた私の前に、ひざまづいた。

「え、これ、なんのまねなの?」

 私は一体ジョンが何をするつもりかわからず、驚きで体を硬くした。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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