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おもとさん、世界を駆け巡る(5)

9月1日に、横浜居留地で初めて競馬が開催された。乗馬が好きなフレデリックは、勿論参加することにした。おもとさんのおなかはふっくらして、誰から見ても妊娠したと分かるようになっていたが、フレデリックの応援のために、競馬場に出かけて行った。観客は皆、男性はモーニングを着て高帽をかぶり、女性はすそが地面にかすりそうなワンピースを着て、つばのある帽子をかぶるか、日傘をさしていた。見るからに紳士と淑女の集まりである。勿論、おもとさんもゆったりとしたエレガントな洋服で行った。その観客の中にいくつかの見知った顔を見かけた。

「ご主人が競馬に参加するんですってね。勝てばいいわね」と、にこやかに声をかけてくれる人もいた。おもとさんも、勿論フレデリックに勝ってほしいと思うが、何しろ競馬を見るのは初めてで、フレデリックの乗馬の技術がどの程度のものなのか、想像できない。フレデリックは障害物競争に参加することになっている。最初は普通のレースが行われることになっていた。おもとさんは初めて見る競馬が物珍しくて近くで見ようとレースコースを仕切る柵のすぐそばで見守った。スタートラインには五頭の馬が並び、ピストルの音を聞いて、一斉に走り始める。馬にまたがったさっそうとした騎手の姿がまぶしかった。目の前に馬が来ると、馬に蹴られた土が噴煙のように舞い上がっていく。思わず後ずさりをしたが、迫力は満点である。一応普通のレースが終わり、最後にフレデリックが参加する障害物競争が行われることになった。コースのあちらこちらに、1メートルぐらいの高さに棒が置かれ、馬はそれを飛び越えていくという競技だった。

 五頭の馬が一斉に並んだ。真ん中の馬にフレデリックが乗っていた。フレデリックは自信満々のようで、おもとさんを見つけると、にっこり笑った。ピストルの音とともに馬が一斉に駆け出した。フレデリックの乗った馬が先頭を走っている。おもとさんは思わず興奮して、子供のように飛び上がりながら、

「がんばってえ!」と大声を張り上げて声援を送った。おもとさんの声援に答えるように馬は軽々と一番目の障害物を飛び越えて、ますますスピードをあげた。しかし、3番目の障害物のところで、高さが足りず、棒を蹴散らすとともに、馬がつんのめってしまい、フレデリックの体は宙にはね上げられた。あっと思った次の瞬間にフレデリックの体は地面に落ちた。おもとさんは、顔が真っ青になり、フレデリックのもとに駆け寄っていった。おもとさんよりも早く駆け付けた競馬の世話役は、フレデリックを抱き上げながら「しっかりしろ。医者を呼んだからな」と、言っていたところにおもとさんは割り込み、「あなた。しっかりして!」というと、フレデリックは痛みに顔を引きつらせながらも、おもとさんに言った。「勝てなかったよ」と、悔しそうに顔をゆがめた。

すぐに駆け付けた医者に診てもらったところ、足が折れているようだが安静にしていれば、3か月もすれば治ると言う診断だった。一瞬、フレデリックが死んでしまったのではないかと気持ちが動転していたおもとさんは、それを聞いて、ほっとした。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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