おもとさん、世界を駆け巡る(9))
更新日: 2017-10-14
翌年の1863年は、フレデリックにとって、忙しい年となった。
その頃、孝明天皇の意向を受けて攘夷を掲げた長州が、下関に砲台を設け、沖を通る外国船に発砲するようになった。最初被害にあったのは、田子の浦沖に停泊していたアメリカの商船ペンブローク号であった。思いがけない砲撃にペンブローク号は這う這うの体で周防灘へ逃走し、上海に逃げ帰った。次に狙われたのは長府沖に停泊したフランスの通報艦キャンシャン号(Kien-Chang)だった。5月23日、キャンシャン号は海峡内に入ったところで各砲台から砲撃を受け、数発が命中して損傷した。キャンシャン号は備砲で応戦したが、なぜ攻撃されるのか事情が分からず、交渉のために書記官を乗せたボートを下ろして陸へ向かわせた。ところがその書記官に藩兵は銃撃を加えため、書記官は負傷し、書記官の護衛のために一緒に下船した水兵4人が死亡した。そのため、キャンシャン号は急いで海峡を通りぬけ、どうにか翌日長崎に到着した。次に被害に遭ったのは、オランダ船だった。
次から次に外国船が襲撃される事態に、まず最初に反撃に出たのは、アメリカの軍艦であった。それに続いてフランスもセラミスとタンクレードという軍艦二隻を送ることにした。フレデリックは通訳として、セラミスに乗船することになった。戦闘に行く軍艦に乗船することになったと聞いたとき、幼い二人の子供をかかえたおもとさんは、顔が真っ青になった。もし、フレデリックの身に何か起こったら、親子ともども路頭に迷うことになる。
そんなおもとさんにフレデリックは、「そう心配するな。この前砲撃を受けたのは、通報艦で、備砲がとりつけてあるくらいの攻撃設備のない船だったから、ひどいめにあったが、今度はちゃんとした軍艦だ。日本の軍艦はイギリスの古い商船を買い取って、それに砲台を付けたようなちゃちなものだが、僕が乗船するセラミスは3830トンもある大型の軍艦だから絶対負けるはずはない」と強気だった。
フレデリックの自信たっぷりの言い方に、少し気が軽くなったものの、おもとさんは、それからフレデリックが無事に戻ってくるまで、眠れない夜を過ごした。
著作権所有者:久保田満里子