おもとさん世界を駆け巡る(21)
更新日: 2018-03-18
おもとさんは、最初はフレデリックの興行師変身の話は冗談を言っているのかと思ったら、本気なようだった。というのは、まもなく肉屋の店を閉じ、毎日サーカス団に入りそうな人物のスカウトをしに出かけ始めたのだ。
おもとさんはフレデリックが本気でサーカス団を立ち上げることを考えているのを感じ、また置いてけぼりを食わないように、熱心に踊りの練習を再開した。
外国に行くというのは、多少不安ではあったが、フレデリックもついていてくれるので、心強かった。英語も日常生活には困らないほど話せるようになった。もっとも、文字は読めないが。
その頃、外人居留地で、外国人の興行師が、軽業や曲芸ができる芸人を集めて、外国に出かけて行ったという話を聞くのは珍しい事ではなかった。実際初めて旅券をとって、外国に行ったのは、英国人のウイリアム・グラントに率いられた松井源水、柳河蝶十郎、鳥潟小三吉といった芸人12名であった。その前に旅券をとらずに外国に行った芸人もいた。皆1866年のことである。フレデリックは、彼らが熱狂的に迎えられているのをサンフランシスコで目の当たりにして、自分もサーカスで一儲けしようと思っていたのである。そういう点、フレデリックはなかなか抜け目のない男であった。
フレデリックは、自分の集めたサーカス団を、グレート・ドラゴン一座と名付けた。おもとさんも含めて25名の一行となった。出発前に初めて顔合わせをした。ほとんどの座員は大阪の「グレート・ドラゴン劇場」からスカウトされた者たちであったが、フレデリックは、一座全員の旅券をとった。おもとさんが受け取ったのは神奈川で発行された第百三号の旅券で、おもとさんは正式に出国の許可を得た最初の日本女性の踊り子であった。
グレート・ドラゴン一座は1867年5月2日に三本マストの帆船、スタンレーで、横浜を発ち、サンフランシスコに向かった。横浜はあいにくの雨模様だったが、雨にかすんだ横浜港を離れる時、おもとさんは、これが日本を見る最後になるとは夢にも思わなかった。だから、子供達に横浜港の景色を見させながら、「当分帰ってこれなくなるから、よく見ておくのよ」と言った。
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