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おもとさん世界を駆け巡る(28)

この頃の宣伝ポスターの演出者は「リトル・オーライ、トミー・ザ・ウルフ、オタケサン、オモトサン、トラキチ、ゴダイおよびその他の芸人」と書かれ、今まで筆頭に書かれていたオモトサンの名前はおタケさんの後に書かれ始めた。これは、おもとさんの一座での地位が下がったことを物語っている。おもとさんは、口にこそ出さなかったけれど、忌々しい気持ちが心の奥底にあった。
しかし、この年のクリスマス直前にマンチェスターのオックスフォード劇場で、公演をしたとき、イギリスの新聞「マンチェスター・ガーディアン」には、「ミス・オモトサンは45度に傾斜したゆるい綱を滑り落ちる素晴らしい技を見せる。彼女以上の演技者を探すことは難しい」とおもとさんの芸を絶賛した。おもとさんは自分の芸もまだまだ認められるとに自信を持った。
1874年1月10日に、イギリスのマンチェスターでオモトサンにとっては5番目の子供、鏡味にとっては初めての娘、ミニーが生まれた。ミニーが4歳になった時、鏡味は、タンナケルとたもとを分かち、自分の一座を立ち上げた。ゴダイユとおもとさんのほかに、カワイ友吉と言う17歳の若者、そしてマツと呼ばれる12歳の男の子の小さな一座だった。最初にゴダイユ一座が向かったのはパリだった。パリで華々しく新聞に広告を出したり、ポスターを貼ったりして客寄せをした。「ゴザイユー一座」の演目は、足で器用に額縁を回す芸、あごの上に棒を立て、手も使わずにその棒の先の駒をくるくると回す芸、樽の上に乗って手にした傘の上のマリを回す芸などを披露した。パリで公演する日本人の曲芸師はまだ少なく、物珍しさも手伝ってパリでは人気を博した。パリを訪れた後はデンマークに行き、デンマークにいる時に鏡味にとっては次女になるタケが生まれた。1880年のことである。。ヨーロッパの国々を巡業していくうちに、1882年9月20日には三女のカメがカッサルというイタリア北部の町で生まれた。その後一座を引き連れ、ゴダイユ一家はいったん日本に戻った。その頃、オモトサンの実家では、兄も亡くなっていた。だからとりあえず、東京に借り家住まいをして、骨休めをしていた。そんな時、おもとさんを訪ねてきた者がいた。タンナケルとの間にできた子供たちの乳母をしていたお福だった。

著作権所有者:久保田満里子


 

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2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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