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おもとさん世界を駆け巡る(32)

 ゴダイユー一座は、1892年の2月には、メルボルンから150キロ北西にある町、ベンディゴに行った。1851年にできたベンディゴの町はそれまでサンドハーストと呼ばれて、羊毛地帯として知られていたのだが、金が見つかってから、一攫千金を夢見た人たちが急激に押し掛け、人口が増大。そこで、住民投票をしてベンディゴと呼び名を変えたばかりの町だった。ベンディゴでの公演も成功を収めた。オーストラリアには大きなサーカス団があり、その当時豪州一の規模を誇るワース・サーカスの座長は、ゴダイユー一座のうわさを聞いて、7月にニュージーランドに巡業に行くので、サーカスの団員として一緒に行かないかと話を持ち掛けてきた。ワース・サーカスは、どちらかというと、人間よりもいろんな動物、ゾウやシマウマなどの芸を見せるので、有名だった。ゴダイユーは良い話だとは思ったものの、おもとさんは、タケとカメと一緒にオーストラリアに残るという。そこで、ゴダイユー、ミニー・ゴダイユー、マツ、トモキチの4人でニュージーランドに行くことになった。ニュージーランドのオークランドで出た宣伝広告には、「ミス・ゴダイユーはオークランドに初めて登場した日本人の少女で、きれいな小さな日本の花瓶に出てくるような顔つきをしており、ひらひらの付いた衣装をまとい、手に扇子を持った、まさに本物のビティ・シンまたはヤムヤムである」とミニーの紹介がされた。ビティ・シンとかヤムヤムと言うのは、その当時有名だったオペラ「ミカド」に出て来る若い日本人女性の名前である。
 4人はニュージーランドの公演を無事に終えて、1893年の1月に戻ってきた。だから半年ぶりで一家団欒することができた。1893年1月末に家族一緒は遅いお正月を祝った。お正月とはいっても、おせち料理を作ろうにも材料も調味料もなく、特別なことをするわけではなかったが、日本酒の代わりにワインを飲み、中華街にある中国食料品店でお醤油を買い、すき焼きをして新年を祝った。新年のつかの間の休暇を楽しむと、すぐにゴダイユー一座はシドニーに向かい、シドニーで公演をした。この時は、ゴダイユー、オモト、ミニー、カメ、そしてトミキチと言ういつものメンバーのほかに、トモキチの妻サダとカチタローと言う若者が加わった。この時はオモトサンも久しぶりに綱渡りを披露することになり、なまった体に鞭打っての出演だった。おもとさんはすでに50歳になっていた。
無事に公演がすむと、おもとさんは、ほっとし、疲れが押し寄せた。この興行でおもとさんは引退することに決めた。ゴダイユもおもとさんに無理をさせたくないと、おもとさんの引退を認めた。

著作権所有者:久保田満里子



 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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