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増岡ヒロミさんの物語(1)

増岡ヒロミさんの物語
 友人のメルボルン大学文学部の副学部長の中根育子さんに、学習院での大先輩として紹介されたのが、増岡ヒロミさん。増岡さんは、メルボルンでお風呂屋さんを始めた人で、とてもユニークな方です。コロナ感染を防ぐため、ズームでインタビューさせていただきましたが、思ったことは即実行という、バイタリティーあふれる方でした。増岡さんのお話を聞いて思ったのは、夢はかなえられると言うことでした。次々と夢をかなえて行った増岡さんの苦労話は、聞く人に勇気を与えてくれることでしょう。

増岡さんのお話
 私は1945年に東京で生まれました。終戦の少し前です。でも、当然のことながら、生まれて間もなく終戦になったので、戦争の記憶は全くありません。
 父は、大きな石屋の5人娘の中の一人息子であったにも拘らず、16歳で家を捨て、苦労をしながら独学でいろいろな勉強をして、20歳で結婚、21歳で父親になりました。その後兵隊にとられましたが、たった2ヶ月で肺結核を患って、うちに帰されました。それから48歳で死ぬまで結核と戦いましたが、独学で英語も話し、エンジニアとして成功した人です。古い飛行機などを買い取り、アルミなどの製品を数々アイデアで生み出したようです。そんな中、陸軍の方々とも知り合いとなり、子供たちのために学習院入学を進められたと聞いております。そのため、姉と二人の兄たちは小学校5,3,1年に編入学、末っ子の私はその後小学校1年生から学習院に入学いたしました。とてもとても怖くて厳しい父でしたが、凄く才能に溢れ、そして商才にたけた人でした。でも偉い方たちの推薦がなければ一介の商人の子供達が学習院には入れなかったと思います。学習院は皇室の方が行かれますが、何しろ学習院しか知らないので、ほかの学校とどう違っていたか聞かれても、分かりません。三笠宮寛仁親王殿下とは同級生でしたが、特別感と言うのは全くありせんでした。
 中高時代は、ソフトボール部に入りました。こちらに来てもソフトボールを60歳まで続けました。習い事も色々しました。生け花は師範の免許を頂きました。筝も師範免許を頂いて演奏にも参加をしていました。料理には、小さい頃から興味があり、大学と並行して料理学校(赤堀料理栄養学校)に一般、日本料理、専門家コース、と3年間、無遅刻無欠勤で通いました。今思うとはるか昔の出来事ですね。
 怖かった父が私が21歳の時に亡くなり、私を抑える人間が居なくなり、そこからは鎖を外された野犬の様な暮らしが始まったので、結婚適齢期と言われる年になっても、結婚しなければいけないと言うプレッシャーは全くありませんでした。母も、父が恐ろしい人だったので全く私に何かを押し付けることは皆無でした。

ちょさk

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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