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イギリスから来た日本画(2)

 私はその後すぐにオーストラリアに帰って来たのだが、イギリスとオーストラリアの8時間の時差は、さすがにこたえて、メルボルンの生活に戻るには一週間はかかった。時差ボケがとれると、私は早速
「さあ、ロンドンの日本人村ってどんな所だったのか調べてみよう」とインターネットを検索した。
 そこには、ロンドンの日本人村はタンナケル・ブヒクロサンという人物が明治18年に作ったものだと、書かれていた。何でも風俗博覧会のようなもので、日本家屋をまねた建物を建て、そこに実際に手に職を持った日本人を住まわせて、いろんな日本の工芸品を作って見せたとあった。また、劇場もあって、そこでは相撲や踊り、撃剣などを見せ、日本ブームを巻き起こしたとある。もっとも日本の教養人や政府の高官から見ると出演者の質が悪く、日本の恥だという声が高く、日本政府は取りやめさせそうとして、躍起になったということだ。
「タンナケル・ブヒクロサン?」変わった名前だが、どこかで聞いたような気がする。
「どこで、聞いたんだっけ?」とその晩は、そのことが頭に引っかかって、なかなか寝付けなかった。翌朝目覚めた時、はっと、気が付いた。聞いたのではなく、見た覚えがあるのだ。確か高橋克彦の歴史ミステリー、「倫敦暗殺塔」と言う本にタンナケル・ブヒクロサンという名前が載っていた。早速、我が家の書斎にある本の山の中からなんとかその本を見つけ読み返してみると、その小説は1885年にできたロンドン日本人村が舞台となっている。高橋は50冊以上の本を参考にして、ロンドン日本人村について下調べたというのだからたいしたもんだと感心した。どうやらロンドン日本人村に関する本が2冊出ているようである。早速本を取り寄せてみて、私はこのタンナケル・ブヒクロサンなる人物が、オーストラリアと深い因縁を持っていることを知って、またまた驚きの声をあげた。
 オーストラリアに初めて来た日本人はサーカス団だったということは、自慢じゃないけど、知っていた。しかし、それ以上のことは知らなかったのだが、なんとこのサーカス団を率いて来たのが、タンナケル・ブヒクロサンだというのである。こうなると、画工の追跡調査よりも、このタンナケル・ブヒクロサンなる人物を調べる方が、おもしろくなった。
仕事から帰って来たシェーンに、私の発見を報告すると、「ふうん」といまいち興味を持ってくれない。
「それで、絵を描いた人物は、分かったのか」と聞くので、「ううん」と言うと、
「なんだ、画家を調べるんじゃないのか」と聞くので、
「有名な画家が描いた可能性があると分かったら、もっと調べる情熱も持てると思うけれど、何しろ、日本人村にいた画工が描いたものとなると、たいして値打ちのないものらしいもん。この日本人村のためにイギリスに渡った職人たちは、日本政府から言わせると下賤な者たちで、日本の恥をさらすというので、随分日本人には不評だったんだって」と私は言い訳をした。
「それで、日本人村にはどんな人たちが参加したの?」と聞かれ、私は早速読んだ本の一部を読み上げた。
「画工、陶器工、陶器画工、鍋釜製造工、提灯(ちょうちん)工、紙すき工、金漆工、絹織物職、染工、縫師、銅・黄銅細工職、傘工、石工、髪結い職なんかを雇ったそうよ」
「それじゃあ、随分たくさんの日本人を雇い入れたんだな」
「百人近く雇ったみたい」
「それは、大変な数だな」
 その日のシェーンとの会話はそこで終わったが、その翌日朝から本の続きを夢中で読んだところ、また新たなことが分かった。知ったことはすぐに誰かに教えたがる性癖のある私は、シェーンが帰ってくるのを手ぐすね引いて待っていた。だからその日は、シェーンが帰宅するや否や、私は彼が着替えも済まないうちに、興奮した面持ちで、シェーンにその日分かったことを報告した。

ちょさk

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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