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アインシュタインの覚書(2)

アインシュタインは帝国ホテルに到着した後、部屋に入って、やっと喧騒から逃れて、リラックスすることができた。そこで、ノーベル賞を受賞してから心に去来する思いを、ホテルのメモ用紙に、書き留めておくことにした。
 最初に書いたのは、
「平穏でつつましい生活は、常にがむしゃらに成功を追求する生活よりは、より多くの幸せをもたらす」
 だった。
 無我夢中で研究に取り組んだ日々。17歳の時大学で出会った女子学生、ミレーヴァ・マリッチは優秀な頭脳の持ち主で、彼女と議論を戦わせて刺激的な毎日を送った。その7年後の1903年にミレーヴァと熱烈な恋愛結婚して、三人もの子供に恵まれたものの、1919年には二人の結婚は破局に終わった。ある人に言わせると、アインシュタインの功績の半分はミレーヴァに負うものだと言われるくらい、一緒に物理学に取り組み、彼女からアイディアをもらうことも多かったが、子供が生まれてからは状況が一転した。彼女は子育てで忙しく、研究から遠のいていった。また従妹で、今の妻エルザは、ミレーヴァほど優秀な頭脳の持ち主ではないが、アインシュタインの心を慰めてくれる。ミレーヴァとの生活とエルザとの生活を考えると、今の生活の方が幸せに思えた。自分を熱狂的に迎えてくれた日本の人々は、自分が追求した成功にだけ目が行っているようだが、自分にとって、それは、心静かに送る生活ほど幸せをもたらしてくれるものではないことを実感して、書いたものだった。
そのメモ用紙の2ページ目には
「意思あれば、道も開ける」と書いた。
  そう書き終えた時、ドアがノックされる音を聞いた。ドアを開けてみると、ホテルのボーイが立っていて、「お届け物です」と言って、アインシュタインに小さな包みを手渡した。
 アインシュタインはポケットに手を突っ込んで、ポケットをまさぐった。ボーイにチップを渡そうと思ったのだ。ところが、小銭が全くない。困ったアインシュタインは、とっさに今書き終えたメモをチップ代わりに渡すことを思いついた。
「これは、今私が書いたものだけれど、うまくすれば、チップ以上の値打ちが出るかもしれんよ」と、笑いながらホテルの名前の入ったメモ用紙を2枚渡した。
 ボーイは思わぬチップに驚いたようだったが、すぐに笑顔で「ありがとうございます。もらっておきます。失礼します」と言って、部屋を去った。

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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