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木曜島の潜水夫(1)

これは、実話に基づくフィクションです。
 18歳になった藤井富太郎は、これから彼を待ち受けているだろう、真珠貝潜水夫としての暮らしに、期待と恐れの入り混じった複雑な思いを抱いて、船の甲板に立ち、海風にそよがれながら紺青の海を眺めていた。1925年のことである。
 富太郎の行先はオーストラリアの木曜島。木曜島と言うのは、オーストラリ大陸の北東にあるヨーク岬から39キロ北西にいったところにある、3.5平方キロメートルの小さな島である。
 富太郎の生まれた和歌山県西牟婁(にしむろ)郡有田村は、貧しい漁村だった。山が海岸に迫っているため耕作地はほとんどなく、村のどの家も貧しかった。当時の日本の平均耕作面積が一戸当たり1ヘクタールなのに、富太郎の生まれた村では、0.6ヘクタールしかなかった。海沿いの村なので、魚はふんだんにとれたが、鉄道も通っていなかったので、大阪や名古屋などの大消費地に魚を送る運送手段がなかった。だから獲った魚も自分たちで食べるだけで、売り物にはならなかった。村人は朝から晩まで働いても、食べるだけで精いっぱいで、8人兄弟の上から4番目だった富太郎は、子供の頃いつも空腹を抱えていた。11歳の時には、大阪の商家に丁稚奉公に出されたが、朝から晩まで顎で使われる丁稚奉公も苦しいばかりで、将来に夢が持てなかった。そんな時、オーストラリアに渡った次兄の弥一郎から手紙が来た。
「オーストラリアに来ないか。田舎にいてもせいぜい1年で15円くらいしか稼げないが、真珠貝潜水夫は、3年の契約で働いて350円ほど稼げる。潜水夫の仕事は危険で、10人に1人が死んでいるが、3年で20年分のお金が稼げる」
 村からは多くの若者が一攫千金を夢見て、オーストラリアに渡っていた。2000円以上の大金を持って帰る者もいた。中には10人のグループで賭けたメルボルンカップの馬が優勝し、4万5千ポンドの大金を手にして帰ってくる者もいた。うわさによれば、大金を手にした者の中には、酒を満たした風呂に入る者もいたと言う。有田村では、オーストラリアから帰った者たちの使うタッカー(食べ物)と言うオーストラリア英語が日常会話に使われるくらい、オーストラリアとのつながりが深かった。弥一郎もオーストラリアに渡った若者の一人で、なまこ採取に従事して、富太郎の実家に送金をしていた。
 記録によれば、1897年の木曜島の全人口は3千人。そのうち真珠貝関係者は千五百人。その6割にあたる九百人が日本人だったと言う。
 真珠貝を採取するのは、真珠が目当てではない。真珠貝の貝殻は七色の光沢を持ち、美しく、高級ボタンとして重宝されていたので、貝殻が目的で採取されていた。
(続く)
ちょさk

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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