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木曜島の潜水夫(3)

ここで、少しその頃の日豪関係を説明しておこう。と言うのは、豪州は1901年から1973年まで白豪主義を掲げ、白人以外の移民の受け入れを禁止している。それなのに、どうして富太郎がオーストラリアに渡航できたのか、疑問に思われる読者もいるのではないかと思う。それは、日本人ほど優秀な真珠貝潜水夫がいないとオーストラリア政府が認めたからである。日本人の新たな渡航を禁じた後、オーストラリアでは実験的にイギリスから白人の潜水夫を雇ったことがある。10人の潜水の経験のある男を選抜し、真珠貝の採取をさせようとしたのである。ところが結果は散々であった。数か月で10人中3人が潜水病で死亡。その上、一人当たりの真珠貝の採取量は、日本人のトレーニングを受けていない者の採取量にも満たなかった。それに生き残った7人も、こんなきつい仕事は御免だとばかりに、転職してしまった。そこで、日本人を排除しては真珠貝産業が成り立たないと思い知らされたオーストラリア政府は、真珠貝産業を維持するために、特別に日本人の潜水夫を受け入れることにしたのである。
 富太郎は、契約にサインをした後、富太郎と同じように真珠貝潜水夫として雇われた若者19人と一緒に、神戸から日本郵船の熱田丸に乗り、木曜島に向かったわけである。船には、富太郎たち20名以外に、移民や荷物、郵便物などが満載されていた。船は、三池で石炭を積んだ後、長崎、香港、マニラ、フィリッピンに寄って、木曜島の北にあるグーズ(GOODES)島を目指していた。
 船は太平洋の荒波にもまれて大揺れに揺れ、船酔いで苦しむ者が続出した。吐き気とめまいで多くの同行者が苦しみ、また脚気で歩けなくなった者もいた。富太郎は、船酔いを避けるため、できるだけ甲板に出て海を眺め、海風にあたることを心掛けた。時おり太陽の光が波に照り返されてキラキラ光る。空を見れば雲の形は刻々と変化していく。遠くに見える島の形も船の運航によって形を変えていく。単調なようでいて、注意をすれば、看板から見る景色は面白く、富太郎を飽きさせることがなかった。そのためかどうか定かではないが、富太郎は、ひどい船酔いに悩まされることもなく、20日ばかりの旅を無事に過ごすことができた。とはいうものの、揺れになれていた体が地上に降り立つと、ふわふわした感じで、ふらついた。 

ちょさ

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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