木曜島の潜水夫(41)
更新日: 2024-03-22
トミーが日本に着いた時、桜の花は散っていたが、すがすがしい空気と青空がトミーを迎えてくれた。空港には外務省の役人が出迎えてくれ、外務省の建物に出向いた。いつもは服装を構わないトミーだが、この日のために新調した紺色のテーラー服と縞のネクタイで身を包んでいた。外務省の役人に皇居の「春秋の間」に案内され、他の受賞者と共に並んで待っていると、明仁皇太子が昭和天皇の代理として現れ、午後1時きっかりに授与式が始まった。トミーは明仁皇太子から青と黄色のリボンのついたメダルを頂くと、胸がいっぱいになった。貧しい村に生まれ、オーストラリアで真珠貝潜水夫となり、一人前になり、生活が安定したかと思うと、第二次大戦が始まって、収容所に入れられた。苦労の多い人生だったが、やっとその苦労が実ったと思うと、誇らしい気持ちでいっぱいになった。授賞式が終わると、外務省で受賞者のためのパーテイーが開かれ、トミーは人々の注目を集めた。パーティーが終わった後、外に出ると報道陣が待ち構えていて、インタビューの申し込みをされた。トミーはヒーロー扱いだった。トミーは、華やかな場と言うのは苦手で、記者たちの質問には、ぼそぼそと言葉少なに答えた。授賞式の翌日は故郷の有田に新幹線を使って戻り、串本市役所で市長との公式会見に臨んだ。「故郷に錦を飾る」と言うのは、こう言うことを言うんだろうなと、トミーは思った。市長と一緒に撮った写真の勲章を持ったトミーの顔は誇らしげでもあり、少し恥ずかしげでもあった。
市長との会見の後は、木曜島のレインボーホテルの泊まり客で、親しくなった久原が、トミーを知る人に会わせるために、色々な計画を立てていて、トミーをあちらこちらに連れて行ってくれた。オーストラリアにいても、日本人の訪問客も多く、日本語が分からないことはないはずなのに、久しぶりに聞く日本語は分かりにくく、正直疲れた。それに公式訪問が続いて肩が凝る旅行だった。
オーストラリアに帰る前日、共に真珠貝を採取し、戦後強制送還させられた城谷勇と会ったトミーは、「君も達者でね。またタースデーへ来なさいよ」といって、「これ、ずっとつけてきたタイピンだが、プレゼントするよ」と、自分のつけていた真珠のネクタイピンをはずして、城谷に渡した。城谷は、その時のトミーの寂しそうな顔を見て、これがトミーとの今生の別れになるのではないかと思った。
参考文献
「オーストラリア・木曜島に渡った日本人の足跡を追う―藤井富太郎氏の生涯から考える」
伊井義人、青木麻衣子 (藤女子大学貴陽第49号第Ⅱブ:1-9,平成24年
「トーレスの海に生きた日々」 (オーストラリアの日本人:一世紀をこえる日本人の足跡)1998年18-19ページ 城谷勇
「日本人潜水夫の採貝技術」(オーストラリアの日本人:一世紀をこえる日本人の足跡)1998年20-21ページ 城谷勇
「最後の潜水夫 藤井富太郎さんと日本墓地」(オーストラリアの日本人:一世紀をこえる日本人の足跡)1998年 茂木 ふみか 22-23ページ
「捕らわれの記」 城谷勇 (オーストラリアの日本人:一世紀をこえる日本人の足跡)1998年66-67ページ
“Tomitaro Fujii: Pearl Diver of the Torres Strait” by Linda Miley, Keeaira Press: Published in 2013
「オーストラリア日系人強制収容所の記録」 永田由利子 2002年
「カウラの突撃ラッパ」 中野不二夫 1991年
「語られ始めた日本人抑留体験―オーストラリアとニューカレドニアを比較してー」
永田由利子
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The pearling industry in Australia: https://tanken.com/moku2.html
「オーストラリア木曜島へ行く:真珠貝採取の日本人」
jstor.org/stable/pdf/j.ctt1q1crmh.8.pdf
“The Japanese in the Australian Pearling Industry “ by D.C.S. Sissons jsto.org/stable/pdf/j.ctt1.1crmh.8.pdf
「南半球便り(その86):遥かなる木曜島」山上信吾、在オーストラリア日本大使館ウエブサイト」
https://www.i-repository.net/contents/outemon/ir/102/102050904.pdf
「第二次大戦前のオーストラリアへの日本人移民の諸問題」 遠山嘉博
https://www.youtube.com/watch?v=enedGUI6pF8
「木曜島の旅 オーストラリアで司馬遼太郎の軌跡をたどる」
ちょさく
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