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踏み絵(後編)

 ケリーと絶交状態になっていたある日、昼食を一緒にした日本人の友達が、彼女のおじいさんの友達の話をしてくれた。おじいさんの友達は政吉と言う名前の人だそうだが、彼は第二次世界大戦前樺太に妻と二人で暮らしていたそうだ。しかし終戦後、樺太がソ連に占領されてしまったので、北海道本土に引き揚げなければいけなくなったのだそうだ。本土から政府が送ってくれる船にはなかなか乗れそうもない。そこで政吉さんは、本土に帰るのに密航船に乗ろうと決心し、密航船の船長と交渉し、なんとか密航船に乗れることになった。ところが、その船に妻と一緒に乗り込もうとした時、妻は船長に足止めをくった。そして船長は思ってもみないことを言い出した。政吉は乗せるが、妻は乗せられないと言うのだ。なぜなら、政吉の妻はアイヌだったからだ。妻はけなげにも自分は待っているから一人でも帰るようにと政吉を説得したため、政吉は身を切る思いで一人密航船に乗った。そのとき、落ち着いたら、きっと迎えに行くからと妻に約束した。しかし、結局その約束は果たせなかった。それは、樺太はサハリンと名前が変えられ、ロシア領となったため、政吉は外国の地となった樺太に2度と足を踏み入れることができなかったからだ。政吉はその後、ずっと妻のことを思い続け、一人寂しく死んでいったそうだ。
この話を聞いた後、何て悲しい話だろうと、ずしんと胸に響いた。
「どうしてアイヌだからって、差別するのよ」と、私は、その密航船の船長に対して激しい憤りを感じた。友達も「全く、同じ日本人として、そんな人がいるなんて、恥ずかしいよね」と言った。私も友達も、オーストラリアに住む日本人として、外国人としてとり扱われる悔しさがよく分かるのだ。
 その晩、突然マギーのことが頭に浮かんだ。マギーを嫌う私は、結局密航船の船長とたいして違わないのではないか。自分は社会正義の味方。人種差別なんてとんでもないことだと、ずっと思っていた。しかし、自分の身の回りの人のことになると、また別の基準が頭をもたげてきたのだ。マギーがケリーの友達ならどうって言うことはない。しかし身内になると思うと拒絶反応が起こる。なんて不条理な感情なのだろう。だんだん冷静になってくる頭で、私はもう一度考えてみた。私はマギーの何が気に食わなかったのだろう。彼女の肌の黒さだけだ。そんなことにいつまでもとらわれていて、いいのだろうか。そう考えてくると、やっとマギーを受け入れる気持ちになった。
翌朝一番、私はケリーに電話した。
「来週の土曜日、マギーと一緒に晩御飯に来ない?」
私の豹変ぶりに驚いたようにケリーが言った。
「本当にマギーを連れて行ってもいいの?ありがとう、ママ」
うれしそうなケリーの声を聴いて、受話器を置いた後、私は心の中でつぶやいた。
「私もやっと人種偏見という呪縛から解放されたわ。もう少しで、息子を失ってしまうところだったわ」
アボリジニの女を娘として受け入れるかどうかということは、なんだか自分の人間性を確かめる踏絵だったような気がした。


注:政吉の話は、菊池慶一の「流氷ほたるの海 知床現代民話」を参考にさせてもらった。  

著作権所有者:久保田満里子
 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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