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運(最終回)

翌朝目覚めたとき、私はすっかり蜘蛛のことを忘れていた。蜘蛛のことを思い出したのは朝ごはんを食べた後だった。
「そう言えば、夕べの蜘蛛、生きているかしら?運がよければ、どこかに逃げていっているはずだけど」そう思いながら、便器を覗き込むと、糸くずのような蜘蛛がまだそこにいた。昨日のようには動いていなかった。逃げていることを期待していた私は、「死んじゃったのかな。かわいそうなことをしたな」と、その時初めて罪悪感が芽生えた。
「動かないけれど、もしかしたら生きているかも知れない」
私はそう思うと、庭から小さな枝を拾ってきて、便器の底の蜘蛛をすくった。蜘蛛は動かず、べったりと枝にくっついた。生きているのか、死んでいるのか、全く分からない。それでも、もしかしたら生きているかもしれないと、私はその枝を裏庭の大きな木の木陰にそっと置いた。
きのう救い出していれば100パーセント助かったものを、蜘蛛の運命に任せようなどといい加減な気持ちから、蜘蛛をそのまま放置してしまった。そう思うと、自分がいかに意地の悪い人間か思い知らされたような気がした。昼ごはんを食べた後、またその蜘蛛のことを思い出した。
庭に出て、放置した枝の先を見ると、蜘蛛はいなくなっていた。
「まだ生きていて、逃げたんだ!」と思うと、やっと私は罪悪感から解放された。
そして、「あんたも私と同じように、運が良かったのね」と、小さな声でつぶやいた。

著作権所有者:久保田満里子





 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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