運(前編)
更新日: 2025-10-26
便器の底の水溜りに土色の糸くずのかたまりのようなものを見つけたとき、私は、なぜ糸くずなんかがこんなところに落ちているのだろうと不思議に思った。しかし、よく見ると、その糸くずもどき物が動いて、水面に円形の波を描いている。そこで初めて、それが糸くずでなく、蜘蛛だと気づいた。ダディイ・ロング・レッグ。足長おじさんならぬ、足長パパと呼ばれるその蜘蛛は糸のように細い長い足を持つ、吹けば飛ぶような蜘蛛である。大して害にもならぬと思われるその蜘蛛は実は猛毒を持つ蜘蛛だけれど、その刺す針が細すぎて人間の皮膚を貫くことができないので、人間には無害だと誰かから聞いたことを思い出した。それにしても、私は蜘蛛と言う蜘蛛が嫌いだ。このまま水を流せば、きっと私の目の前から消えてしまう。フラッシュに手を持って行ったが、すぐにその手を留めた。敬虔な仏教信者だった祖母から「殺生をしちゃあ、いけんよ」と言われたことを思い出しからだ。しかし、だからと言って、どうしたらいいのだろうか。私は、家にあるもう一つのトイレを使うことにして、水面であがいている蜘蛛をそのままにして、トイレを出た。「まあ、運がよければたすかるでしょう」。そんな気持ちだった。そう、この世は運があるかないかで決まる。私がそんなことを信じる運命論者になったのは、メルボルンで暮らすことになった経緯が、運命としか思えないからだった。
私はその晩、寝ながら、40年前メルボルンに来たときのことを思い出した。携帯電話もATMもない時代である。日本にいたときの私は毎日惰性で中学校に通っている、いわゆる「でもしか先生」だった。そんな私がオーストラリア人の夫を持つ日本人女性を友人から紹介されて、彼女のオーストラリアへの誘いに乗る気になるののは時間はかからなかった。彼女と話しているうちに、何かチャレンジできることをしたい。そうだ。オーストラリアで日本語を教えたい。そんな夢がムクムク広がって行ったのだ。普段は自分の欠点は優柔不断なことだと自覚していた私にしては思い切りが良かった。すぐに学校をやめ、ビザを申請したが、もらえたビザは観光ビザ。それでも私は一人オーストラリアに来てしまった。英語もままならぬ私に、そんなにすぐに仕事が見つかるわけもない。それでも、オーストラリア人に日本語を教えたいという夢を捨てきれなかった。仕事を見つけようともがいている間に、3ヶ月のビザはすぐに切れた。だから6ヶ月に延長してもらった。それでも仕事が見つからない。その間、私にできることは、自分の英語力をつけることだった。だから移民のための英語学校に紛れ込んで、英語学校にせっせと通った。ビザが切れる6ヶ月目にはフィージーに行って、新たに3ヶ月のビザをもらった。あと3ヶ月で仕事が見つからなければ、日本に帰って、また再就職の口を見つけなければいけない。焦りで不安に襲われ、眠られぬ日が続いたが、時は容赦なく過ぎていった。もうビザが二週間で切れるという日だった。移民の英語学校で知り合った郁子が、「これ、私のボーイフレンドが見つけた日本語教師募集の広告だけれど、あなた、応募してみたら?」と、新聞広告の切抜きをくれた。勤務先を見ると、クイーンズランドの田舎町。その時いたメルボルンから車で行けば3日はかかる遠い所だった。それでも、わらにでもすがる気持ちで、応募した。しかし余り期待はもっていなかった。応募して1週間後に、夕方薄暗くなってアパートに戻った私は、ドアの下に差し込まれている紙に気づいた。見ると電報だった。それには、「明日午後2時に、面接に来られたし」と、書かれていた。まさか、面接に呼ばれるとは思っていなかった私は、一瞬信じがたい気持ちになった。そして「万歳!」と叫んだが、すぐに現実に引き戻された。翌日に面接となると、翌日の朝飛行機でメルボルンを発たなければいけない。手元の現金を見ると100ドルもない。銀行はすでに閉店している。せっかく面接にまでこぎつけたのに、お金がないから行けない。すぐに気持ちよくお金を貸してくれる人も思いつかない。喜びはみるみるしぼんでいった。
(続く)
ちょさ

 
       
       







 
	    
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