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もしも、あの時(3)

ポールはうちに帰っても、不安で心臓がぞくぞく波打っていた。
「なんて事をしたんだ」
後悔の念で胸が一杯だった。あの女はあれからどうしたのだろう。公園に戻らないで、そのままタクシーを拾って帰ったので、あの女がどうしたか分からない。警察に行ったのかも知れない。うちではもう両親は寝ていて、シーンとしていた。今さっき起こったことを洗い流そうとするかのように、ポールは血のついた手に石鹸をこすりつけて何度も何度も洗った。血は流れ落ちたものの、洗っても洗っても、男の血まみれの顔が頭を離れなかった。その後は着替えをする気にもなれなくて、セーターとジーンズの今朝でかけたときのままの格好でベッドに横たわったが、目がさえてねむれず、ジーッと暗闇の空間を眺めていた。
 明け方まどろんだようだった。朝の光がカーテンの隙間から漏れて来るので目が覚めた。するとまた昨日のことが走馬灯のように思い出された。
「あの男は無事だっただろうか」
まず、それが気になった。目覚まし時計を見ると、8時になっていた。両親はもう起きているだろう。ポールは大学を卒業して2年になるが、親のうちに住む便利さから、そのままずるずる両親と一緒に住んでいた。
 頭ががんがんと痛い。体も鉛をつけられたように重かった。ベッドから起き上がろうとしたが、起き上がれず、そのまままたベッドに倒れ込み、頭を抱えてじっと横たわった。それからどのくらい時間がたっただろうか。母親のジーナがポールの部屋のドアを軽くノックした。「ポール帰っているの?もうお昼よ。そろそろ起きたら」そして部屋に入って来たジーナは布団に包まっているポールを見て、「いつまで寝ている気?」と布団を剥がしかけて、ポールが頭を抱えているのに気づき、「頭でも痛いの?」と気遣わしげに聞いた。「うん」とポールが僅かにうなづくと、ジーナはそのまま部屋を出て行き、5分後には、片手に水の入ったカップともう一方の手に鎮痛剤のパナドールの錠剤を持って戻って来た。
「これでも飲みなさい」とジーナはパナドール1錠とカップを差し出した。
「きのう、飲み過ぎたんじゃない?」
「うん」
薬を飲みながら、母親の干渉が煩わしく感じられた。ポールが薬を飲むのを見届けて、ジーナはコップを持って部屋を出て行った。
あの男はどうなったのだろう?新聞に何か載っているかも知れない。パナドールのおかげかどうか、20分も経つと、頭痛が消えた。ベッドからそろそろ起き上がり、新聞を探しにファミリールームに行った。誰にも会いたくない気分だったが、ジーナがいた。
「起きて大丈夫なの?」
「うん、少し楽になったよ」
「何か食べたら?」
「いや、何にもほしくない」と答えると、テーブルの上にあった新聞をわしづかみにして、すぐに自分の部屋に戻って行った。
第一面には、昨日のフットボールの決勝戦の結果がジーロングのチームの写真入りで大々的に報道されていた。2面を開けたが、何もあの男に関する記事はなかった。3、4面も何もなかった。少し安堵を感じた時に、5面の片隅に、あの男のことが載っていた。
著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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