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EMR(9)

 理沙は会社に着くと、慣れない仕事のためなのか要領が悪いのか、その日も一日多忙を極め、会社にいる間、一度もEMRのことを考える暇さえなかった。
 理沙はその日の帰りも調査をしようかなと思ったが、会社で全力投球したために疲れて、帰りの電車の中ではEMRを取り出す気力もなかった
晩御飯を食べた後、調査報告書を出して、その日の情報を書き込んだ。

ケース1
日時:一月十日午前七時半―八時
場所:ボックスヒル駅からメルボルン・セントラル駅
相手:インド人の二十代前半と思われる男性
接触場所:背中
感度:五つ星

二日目の朝、理沙は電車の奥のほうには全く入れなかった。仕方なくドアのそばに立ち、周りをたくさんの人に囲まれていた。そのうちの一人、スーツを着た白人の二十代後半と思われる男性がつかんだ棒が理沙の目の前にあったため、彼の手と理沙の手が触れた。EMRを取り付けてみると、ちょっと感度が悪くてざわざわする感じがするが、かすかにその男の想念が伝わってくる。しかし、きのうと違って全神経を集中させないと聞こえない。
「あ~あ。眠いなあ。こんなに毎晩遅くまで仕事だと寝不足になるのは、無理もないか。昨日の夜勤はこたえたなあ。仮眠をしたかと思うと救急患者が来て、眠い目をこすりながらの診察では、もしかしたら誤診もあるかもしれないなあ。病院っていう所はこんなに階級性が強いところとは思わなかったなあ。新米の僕に全部しわ寄せが来るんだから」
「えっ?この人お医者さん?」と理沙は、びっくりした。感度が悪いのは、この人が寝不足で脳の思考が不活発なためかもしれない。それにしても、本人も誤診を心配しているけれど、こんな医者に診られる患者のほうは、たまったもんじゃないわと、理沙はこの男に同情するよりも毒づきたい気分になった。
 感度が悪いのは接触しているところが手の甲のせいかもしれないと、今度はきのうのように男の背中に触れてみた。感度はさして変わらない。もしかしたら、調査相手の体調によって、感度が上がったり下がったりするのかもしれない。これもメモに取っておいたほうがいいなと思いながら、理沙は会社に向かった。
 その日の帰りは、きのうほどの疲れを感じなかった理沙は、調査を続けることにした。
 帰りの電車で理沙のそばに立ったのは、二十代前半と思われる金髪美人の女性だった。すらっと長い足に高いヒールが良く似合っている。ほっそりとしているが胸と腰は豊かでプロポーション抜群である。もしかしたらモデルかもしれない。白いふわっとした感じのワンピースは、理沙が一度は自分でも着てみたいなと思うような高級品だった。きっとお金持ちなのだろう。ただ、何かいやなことがあったのか、額にしわを寄せ、深刻そうな顔をしている。理沙は早速EMRを取り付けて、そっと彼女の指に触れた。幸いにも電車が込んでいたからか、彼女があまりにも自分の思いに心をとらわれていたせいか、難なく心の声を聞くことができた。
「どうしよう。どうしたらいいんだろう。切り取るか、そのままにしておくか。遺伝子なんて調べてもらわなければ良かった。ママが乳がんになったと聞いた時は、目の前が真っ暗になる思いだったわ。ママのママも乳がんで亡くなったんですもの。ママに『うちの家系には乳がんの遺伝子があるのかもしれない。あなたも乳がんの遺伝子を持っていないか、調べてもらったほうがいいわ』なんて言われ、調べてもらったんだけど。きのう結果が分かったって知らせがあったので、急いでお医者に行ってみると、乳がんの遺伝子があるなんていうのだから。ママに電話したら、すぐにでも乳房を取り除く手術をしてもらいなさいと言っていたけれど、ボーイフレンドのニールは何ていうだろう。ニールはいつも私の乳房はプルンプルンとしてかっこがいいって褒めてくれているわ。その乳房がなくなると、ニールから見向きもされなくなるんじゃないかしら。あの人はほんとにプレイボーイだから目が離せないわ。いつも何人もの美女に取り囲まれていたのを、一生懸命モーションかけて、やっと他の女を追っ払ったというのに。フットボール選手は皆の憧れの的で、フットボール選手とセックスしたというだけで自慢する女もたくさんいるのだから、ニールをつなぎとめられる自信は、私にはないわ。そうかと言って、このままほっておくと乳がんにかかる可能性は高いということだし」
 女は大きなため息をついた。理沙の心は最初この女を見たときのねたましさがスーッとひいていき、代わって憐憫の情が生まれた。理沙は心の中で、「そんな乳房がなくなったくらいで他の女に走るような男は、早く別れたほうがいいわよ」と言っていた。勿論口に出しては言わなかったが。女はメルボルン・セントラルから5つ目の駅、ホーソン駅で降りていった。
その晩、理沙が記入した調査表には、次のように書かれていた。

ケース2
日時:一月十一日午前七時半―八時
場所:ボックスヒル駅からメルボルン・セントラル駅
相手:白人ニ十代後半と思われる男性
接触場所:手の甲
感度:一つ星
備考:背中も触れたが、感度悪し。調査相手は疲れて眠そうだった。もしかしたら、実験
対象者の思考の強さが感度に影響するのかもしれない。

ケース3
日時:一月十一日午後五時半―六時
場所:メルボルン・セントラル駅からホーソン駅
相手:白人二十代前半と思われる女性
接触場所:指
感度:四つ星

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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