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EMR(10)

その晩、理沙はなかなか寝付けなかった。一見して幸せそうに見える人にも、いつ不幸の火の粉が襲い掛かってくるのか分からない。そんな思いに駆られたのだ。ボーイフレンドと言えば、省吾はどうしているだろうか。省吾と話したのは2日前だったが。
その翌朝は、夜寝つきが悪かったので、朝寝坊をしてしまった。だから、朝ごはんも食べずに慌てて家を出た。頭がボーとしていてEMRを取り出す気がしなかったので、朝は調査をお休みにした。
 会社からの帰りは少し元気が出てきたので、ハンサムな二十代の後半から三十代前半と思われる白人をターゲットにすることにした。その男の長い睫、大きな青い目、そしてウエーブのかかったような柔らかそうな茶色い髪の毛、それに筋の通った程よい高さの鼻は、少女マンガに出てくる王子様のようで、理沙の好みにぴったりだったのだ。もっとも王子様と言える年齢ではなかったが。
 相手がハンサムだと胸がドキドキする。EMRをハンドバックから取り出して、痴漢に間違われないように祈るような気持ちで、男の腕にそっと触れてみた。
すると、すぐに男の声が聞こえてきた。
「来週の火曜日はレベッカの誕生日だな。何をプレゼントしよう。婚約指輪を買って、プレゼントしようか?でもこの間結婚の話を持ちかけたら、まだ結婚によって束縛されたくないわって、あっさり断られたからなあ。そうだ。高級レストランに行って、ロマンチックなディナーっていうのもいいな。レベッカはフランス料理が好きだから、ジャック・レモンがいいかもな。あそこは値段は高いけれど、味は抜群だからな。そうしよう。今日も会社でレベッカの顔が見られただけで、心が浮き浮きしたな。レベッカを見るだけでまるで俺の細胞の一つ一つが喜びの声をあげているって感じだからな。俺って、レベッカに首丈だって友達からからかわれるけど、まあ、本当のことだから仕方ないな」
 皆くたびれたような顔をしている乗客達の中で、彼だけが嬉しそうに輝いて見える。
「何だ、恋人がいるのか。馬鹿馬鹿しい」と理沙はすぐに彼の腕から手を放した。人ののろけなんか聞いても、ちっとも面白くない。
 次には、背広を着てはいるが、くたびれ果てたような顔をした五十代の白人の男に目を
つけた。頭も禿げかかって、眉間に皺があるその男は、さっきの男と対照的だった。仕事の悩みでもかかえてくるのだろうか。その男の背中に触れてみた。
「きのうも二百ドル負けてしまったな。これで、今月は三千ドルも負けてしまったことになる。何とかせめて元手だけも取り戻さなければ。ケイトの奴からまたガミガミ言われるだろうな。生活費までポーキーに使って家族を飢え死にさせる気かといって金切り声を張り上げて責め立てられるのはたまったもんじゃない。家にまっすぐ帰る気にはなれないな。これからまた帰りにパブによって、ポーキーをしてみよう。今日は何となく運がついているような気がする。でも、財布の中には五ドル札一枚しか入っていないから、どこかで現金が手に入らないものだろうか。またビザカードを使って、百ドルおろすことにするか。借金が増えるが、前のように三千ドル当たったら、そんな借金なんてすぐに返せる。大丈夫だ。今日こそは勝って見せる」
 自分を励ますように言っている男の声は、ハンサムな男の声ほどはっきりは聞こえず、くぐもっていた。
 その晩に、早速調査表に次のように記録を書き入れた。

ケース4
日時:一月十二日午後五時半―五時四十五分
場所:メルボルン・セントラル駅からカンタベリー駅
相手:白人二十代後半から三十代前半と思われる男性
接触場所:腕
感度:五つ星

 ケース5
日時:一月十二日午後五時四十五分―六時
場所:カンタベリー駅からボックスヒル駅
相手:白人五十歳代と思われる男性
接触場所:背中
感度:二つ星


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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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