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EMR(22)

「警察だ。誰かいないのか?」
理沙は、その声を聞いて、「助かった!」と安堵の喜びに満たされた。しかし、その喜びもつかの間だった。
「誰もいないのかな?外から鍵がかかっているぞ」と言う声が聞こえたが、その後警官たちの足音が遠ざかっていき始めた。
「いいえ、私がいます!」と大声で叫びたくても、さるぐつわをされているので声が出ない。必死になって、ドアに向かおうと思うのだが、手足を縛られているので、思うように動けない。肩と膝を使って、這うようにドアに向かってゆっくり動き始めたが、床がコンクリートなので、肩も膝も床にこすれて痛い。しかし早くドアに向かわなければ、せっかく来てくれた警官が帰ってしまう。そうなれば、もう誰も助けに来ないことが目に見えている。ここで、警官に自分が中にいることを知らせなければ、ここで飢え死にするか、また戻ってきたムハマドに殺される。そう思うと、こすれた肩や膝から血がにじみ始めるのを感じたが、肩や膝の痛みもこらえて必死になって這った。ドアにたどり着くと、進行方向を変えて、両足をドアに向かって思い切りふり上げて、蹴った。「ドーン」と言う音がした。もう一度、ドアを蹴った。
「私がいることに気づいて!」と念じながら。
 それを聞いた警官が戻ってきてくれたらしい。かけ足で戻って来る足音がして、ドアの前で止まったかと思うと、
「誰かいるんだな。今からドアを蹴っ飛ばすから、すこしドアから離れてくれ」と言う声がした。
 理沙は、慌ててドアから這うようにして離れた。すると、ドアがバーンという音とともに開き、外からの光が流れ込み、ドアの前に立った人がシルエットになって見えた。その人影の「理沙か?」と言う声を聞いて、その人影がマークだと分かった。
 サルぐつわをされて答えようにも答えられない理沙を、小屋につけられた電灯が照り出した。
「大丈夫か?」と慌てて駆け寄ったマークと、マークについてきた制服の警官が、理沙の手足の紐をとき、さるぐつわもはずしてくれた。縛り付けられていた手首と足首が赤く腫れ上がり、肩と膝はコンクリートの床にこすられてすりむけて血がにじみ、ヒリヒリした。
 マークから、「尾行なんて、大胆なことをしたものですね。殺されなかったからいいようなものの」と言われたが、本当に馬鹿なことをしたと後悔していたので、理沙は緊張していた気持ちから解き放たれワッと泣き出した。
「ともかく、病院に行きましょう」と言われ、制服の警官が運転するパトカーに乗せられ、病院に連れて行かれた。幸いにも、肩と膝の擦り傷と口の中が切れていたこと以外治療するところもなく、入院することもなかった。
 病院で治療を受けた後治療室を出ると、マークが待っていて、詳しい事情を聞かれた。理沙は尾行して見つかり、監禁されたことを詳しく説明したが、ムハマドはどこにいったかという肝心なことは、何も答えられなかった。事情聴取が終わったところで、今度は理沙がマークに聞いた。
「どうして、あの小屋にいることが分かったんですか?」
「君がムハマドがリリーデールで下りたというから、リリーデールにムハマドの知り合いはいないか調べてみたんだ。すると、ムハマドにはアバスという弟が一人いて、その弟はリリーデールの市役所に庭師として雇われていることが分かったんだ。そこで、ムハマドは弟に会いに行ったのかもしれないと思って、市役所に僕と制服の警官と二人で行ったんだが、弟まで早引きしていたんだよ。市役所の人に、駅の近くにアバスが行きそうなところはないかと聞いたら、庭仕事に使う用具を入れた小屋があるっていうじゃないか。もしかしたらと思って、あの小屋に行ってみたら、君がいたって言うわけさ」
 パトカーでマンションに送られた理沙は、マンションに帰りつくと疲れがどっと出て、その晩はベッドに倒れこみ、コンコンと眠ってしまった。
 目が覚めたら、日曜日の朝になっていた。うずく手首を見たとたん、きのうのことが思い出され、恐怖で身がすくんだ。あの時マークが来てくれていなかったら、私の死体が林の中にでも埋められて、永久に誰にも見つけられなかったかもしれない。
 理沙は母親の声が聞きたくなって受話器を取り上げたが、きのうの出来事を話すと、母親を心配させるだけだと気づいて、受話器を元に戻した。すると、受話器を置いたとたん、呼び鈴が鳴り響いた。電話に出ると、ハリーからだった。
「きのうは、結局どうなったんだ?」
 何も知らないハリーの声が、のどかに聞こえた。
 理沙がありのままを話すと、
「なんて無謀なことをするんだ。君って勇敢と言うか、馬鹿と言うか・・・」
「馬鹿って言うことはないでしょ。でも、携帯が取られたし、現金も取られたし、殴られるしで、散々な目にあったわ」
「EMRも取られたの?」
「いいえ。ムハマドには何か分からなかったみたい。だから無事よ。私の手元にあるわ」
「それは、よかった」とハリーの安堵する声が聞こえた。
「それで、捜査のほうは、すすんでいるのだろうか?」ハリーが心配そうに聞いた。
「きのう聞いたところでは、何の進展もなかったみたいだわ。ムハマドもムハマドの弟のアバスも、どこかに雲隠れしたみたいよ」
「決行日は明日に迫っているのに、そんなことじゃあ、自爆テロを防止できないじゃないか」
「それは、そうだけど、そんなことは警察に任せればいいと言ったのは誰でしたっけ?」
 ハリーの苦笑いする声が聞こえた。
「まあ、僕達で協力できることがあれば、協力したいと思っただけさ」
「じゃあ、また今夜のニュースを楽しみにしていましょ」と理沙は電話を切った。
 理沙は昨日の出来事を順を追って思い出していたが、何かすっきりしないものがある。それが何なのか、よく分からない。
「ハリーと私が協力できるってことは、他人の心を読むことぐらいね」と独り言を言ったが、その時、突然心の奥底で引っかかったことは何だったのか、霧が晴れ渡ってくるように、明確に見えてきた。


著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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