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EMR(28)

しばらくの沈黙の後、ムハマドは
「分かった。一万ドルで買おう。場所と時間は後で、こちらから連絡する」と言うと、ニールの返事を待たないで、電話を切った。
「畜生!ムハマドはきっと監視しにくい所を選ぶに違いない。まずいことになったな」とマークは腹立たしげに机を拳で叩いた。
 理沙たちは、これ以上警察にいてもすることがないように思えたので、マークに「私達、これで失礼します」と言った。すると、マークは初めて理沙たちがまだ部屋にいたことに気づいたようで、理沙たちのほうを見て気を取り直したように、
「いや、君たちの協力には、感謝するよ」と握手をすると、あたふたと取調室を出て行った。
 警察署を出た理沙は、ハリーに送ってもらってマンションに戻ると、もう六時になっていた。あの後どうなったか気になったが、ムハマドのことから頭を切り替えようと冷蔵庫を開け、野菜と肉を取り出して、カレーライスを作った。
 カレーができた時は、七時になっていた。公共放送のABC(オーストラリア国営放送局)のニュースが始まる時間である。テレビをつけると、ちょうどニュースが始まったところだった。テレビの前のテーブルにカレーライスを持って座り、カレーを食べながら、ニュースを見た。
「メルボルン空港がイスラム原理主義者の自爆テロのターゲットになっています」とアナウンサーが言った時、とうとう公表することになったのかと、理沙はカレーを食べていた手を止めて、食い入るようにテレビに見入った。画面にはマーク・クロフォードが出てきて、
「明日イスラム原理主義者によるメルボルン空港の襲撃計画があることが発覚しました。計画実行犯は、ムハマド・ラシードというグレンフェリーに住む男です」と言い、画面には、理沙が渡したムハマドの写真が映し出された。
「ムハマドは昨日の午後から行方をくらましています。もし、この男を目撃した人がいれば、防犯課にご連絡ください」と言うマークの声と共に、1800333000と防犯課の電話番号が字幕に出た。
 マイクをマークに向けていた報道記者が、
「ムハマドはアルカイダの一味なのですか?」と聞いた。
「そこは、今確認中です。しかし、ムハマドは去年半年パキスタンに行っていますから、もしかしたらパキスタンでアルカイダと接触があり、ゲリラ訓練を受けた可能性があります」
「ムハマドはパキスタン人なのですか?」
「いいえ、サウジアラビア人です。十七歳のときオーストラリアに来て高校に入学、その後大学を卒業し、オーストラリアの永住権を取得しています。弟のアバスも自爆テロに関わっている可能性があります。残念ながらアバスの写真はまだ手に入っていません」
「両親もメルボルンにいるのですか?」
「いえ、両親と妹はサウジアラビアにいます」
「では、イギリスの地下鉄爆破事件と似たケースですね。もっとも、あのテロ爆破の犯人たちはイギリス生まれだったそうですが、パキスタンに行って、アルカイダから軍事訓練を受けたということですから」
「そうです。メルボルン空港は厳重に警戒していますから、明日飛行機に乗る予定の方は、早めに空港に来てください。手荷物検査を厳重にしますから、出国するまでに時間を取られると思います」
「メルボルン空港では警備が甘いという意見も聞かれますが、どうですか?」
「確かに、アメリカのように指紋検査や、ボディ・スキャンなどはしていません。今までテロリストに狙われたことがなかったので、今の警戒で十分だと思っていましたが、今回の事件で、指紋検査や眼球の虹彩の検査を導入する必要があると痛感しています」
「指紋検査や眼球の虹彩の検査は、どれくらい効果があるんですか?」
「眼球の虹彩の検査は今のところ失敗したということは聞きませんが、指紋は手術によって変えることができるので、犯罪者の中には手術をして指紋を変えて不法入国したという話は聞いたことがあります」
「それでは、オーストラリアは眼球の虹彩の検査を導入することを考えているのですか?それともアメリカのようにボディ・スキャンをする方法を取り入れるつもりですか?」
「近いうちにアメリカに行く飛行機の乗客に限って、ボディ・スキャンを取り入れる予定です」とマークが答えたところで、報道記者の顔が大きく画面に写し出され、
「トム・マクミラン、警察本部よりお伝えしました」と、次のニュースに移っていった。
 どうやら、ムハマドをおびき寄せる作戦は失敗したようである。
 理沙は、とたんに食欲をなくしてしまった。カレーを食べても、全然味が感じられなかった。明日はまた仕事に行かなければいけない。メルボルン・セントラル駅が狙われているわけではないので、理沙の通勤には差し障りがない。しかし、不安な気持ちは消えなかった。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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