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ハンギング・ロックの謎:事件の始まり(1)

  ジェーンは仕事からの帰り、駐車場に自分の車以外に白いカローラが停まっているのを目にした。もう午後6時になっており、周りは薄暗くなっていた。ジェーンはメルボルンから1時間も北へ行ったところにある岩山、ハンギング・ロックの麓にあるカフェの経営者である。600万年前に火山活動によって出来たといわれるハンギング・ロックは平原の中ににょっきと入道雲のように突き立っている姿が遠くからでも眺められる100メートル余りの高さの岩山である。周りに人家もほとんどなく、ピクニックを楽しむ人々が訪れるだけで、夕方になって薄暗くなると、不気味な雰囲気が漂う。ハンギング・ロックの周りは柵で囲まれており、車が出入りできるのは一箇所だけ。そこでは、棒でできた遮断機が車の行く手をさえぎっていて、入るのは自由だが帰る時は券売機で買った駐車券を入れなくては棒があがらないようになっている。ジェーンが帰る頃に駐車場に車が残っていることは珍しかった。ただ、物好きな人がまだ残っているのかも知れないと、不審に思いながらも、その夕方はうちに帰った。しかし、翌日午前8時半に来た時、きのうの車がそのまま停まっているのを見て、何か不吉な予感がしてきた。白いカローラの窓から運転席を覗き込んだが、車の中はきれいに整頓されていて、外から見えるのは地図帳と傘だけで、そのほか不審に思われるものはなかった。しかしこの車の主はきのうハンギング・ロックに野宿をしたとは思えず、ともかく警察に連絡をすることにした。
 制服を着た若い二人連れの警官の一人が、開店準備で忙しくしているジェーンのカフェのドアをノックした時は、ジェーンが連絡をして30分たっていた。大して急ぐこともないだろうとのんびり来たという風だった。ジェーンがドアを開けると
「僕は巡査のマーク・ファーガーソンで、こちらは相棒のアーサー・ウイルソンです。ジェーンさんですね?」
と制帽を脱ぎながら、マークが聞いた。
「そうです」とジェーンが答えると
「通報を受けてきたのですが、不審な車ってどこにあるんですか?」と聞いてきた。
ジェーンは、カフェのドアを開けて外に出て、駐車場のほうを指差した。駐車場と言っても舗装されているわけでも屋根があるわけでもない野外駐車場で、緑色のペンキを塗った丸太で30センチぐらいの高さの囲いがしてあるだけである。駐車場の側にはユーカリの木があちらこちらに立っており、ピクニック用のテーブルが3つほどある。
「あそこにある白いカローラが夕べから停まったままになっているんです。ご覧のように、この周りには民家はなく、ここに車を停めてどこかに遊びに行くなんて事は考えられないので、あの車の持ち主に何かあったのではないかと不安になって連絡したのです」
「失踪事件かもしれないと思ったんですね?映画のように」と言うと、マークはにやりとした。ハンギング・ロックといえば、岩山自体よりもハンギング・ロックを背景にして起こった失踪事件を扱った『ハンギング・ロックでのピクニック』という映画があまりにも有名だからである。
「そうです」とジェーンは素直に認めた。
二人の警官はそれからカローラのほうに向かっていったが、その後はジェーンも開店の準備で忙しく、二人にはついていかなかった。
15分後、二人の警官はジェーンの元に戻ってきて言った。
「車の持ち主の住所が分かったので、持ち主の居所をつきとめてみますよ」
「そうですか」
「車の持ち主は、名前から見るとアジア人のようなんですが、きのうアジア人をみかけませんでしたか?」

ジェーンは笑いながら、
「ハンギング・ロックに来る3割くらいの人は、アジア人ですからね。アジア人というだけでは分かりません」
「そうですか。じゃあ、また何かあったら、聞きに戻ってきますから」と、マークは帽子をかぶってパトカーのほうに戻っていった。
メルボルンの郊外にある派出所に「ケースケ・ゴトー、ジョンソン・ロード 23の2、ケンシントン」の居所を確認するようにと通達があったのは、その10分後である。それを受けてケン・レイモンド刑事は、早速その住所にあるアパートに向かった。盗難が多い地区にあるアパートだけに、アパートの建物のドアはしまっており、中から住民に開けてもらわないとドアが開かない仕組みになっていた。ドアの側についている2号室のボタンを押したが、何の反応もなかった。仕方ないので隣の1号室の住民に事情調査をしようと、1号室のボタンを押すと、幸いにもすぐに女性の声が戻ってきた。

「どなたあ?」
「警察の者ですが、お隣に住んでいる後藤さんのことについてお聞きしたいんですが」
女性の間延びした声は、警戒したような声に変わった。
「後藤さんが何かしたんですか?」
「いえ、後藤さんの居所が知りたいんですが、ちょっとドアを開けてもらえませんかね」と言うと
「後藤さんはメンジーズ大学の先生だそうだから、メンジーズ大学に行かれたほうがいいんじゃありません?」と、一刻も早く刑事を追い払いたい風だった。
「メンジーズ大学の何科ですか?」
「日本語を教えているそうですから、日本語科とかアジア言語科とか、そういった科ではありません?私、詳しいことは知りません。挨拶をする程度のおつきあいですから」
女はドアを開ける気は全くなさそうだった。
仕方なく
「どうもありがとうございました。また、お聞きしたいことがあるかもしれませんが、その時はよろしくお願いします」と、そのまま引き下がった。レイモンドはその足でメンジーズ大学に向かった。メンジーズ大学はメルボルンにある三流大学で、アパートから歩いて15分の所にあった。
 大学の正門で守衛からアジア言語科の場所を聞いてたどり着いた所は、赤や青のモダンなデザインの絵が描かれた建物だった。いかにも若者にアピールしそうな建物である。
建物に入るとすぐに受付があったので、レイモンドは警察手帳を見せながら聞いた。
「こちらに後藤啓介って言う人がいるはずなんですが、お部屋はどこですか?」
「ああ、ケースケなら、3階の308号室ですよ」
40代と思える太っちょの人のよさそうな受付の女性が答えた。
大学は休暇中のためか、建物の中は閑散としていた。

 

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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