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ハンギングロック:後藤の失踪(3)

11月27日
 土曜日はいつも聡子との約束で、聡子のうちから子供二人を拾い、土曜校と呼ばれる、日本人の子弟に国語と算数を教える補習校に連れて行かなくてはいかないので、朝8時過ぎにうちをでて子供達を迎えに行った。上の子は弘と言って小学校6年生、下の子は祐一と言って小学校5年生だ。二人とも現地校に行き始めて、英語がめきめき上手になったのに反比例するかのように日本語が下手になっていったので、聡子と相談した結果、土曜校を続けさせることにしたのだ。ところが、二人とも土曜校に行きたがらなくて、いつも土曜日の朝はぐずぐずする。その子供達を急きたてて学校に連れて行くのは一仕事である。
「おい、弘、早くしろ」と靴を履くのに手間取っている弘の背中を押して車に乗せ、補習校に着いた時は学校の回りは、子供達を送ってきた親たちの車でごった返していた。やっと学校から一ブロック離れた所に駐車できるスペースを見つけ駐車して、子供達をそれぞれの教室に送り届けた。すると、校門を出たところで、弘の友達の翔太のママが僕を見つけて、「ああら、後藤さん」といつもの鼻にかかったような声で、話しかけてきた。翔太のママはいつも化粧をばっちりして派手な洋服を着ているので、Tシャツにジーパン姿の多い親たちの中で目立つ。

(「そういえば、翔太のママ、明美さんは後藤に気のあるそぶりをみせていたわ」と聡子は苦笑いをした。)

「やあ、明美さん。お久しぶりですね。今日は今からおでかけですか?」と僕はからかうように言った。
「これからスーパーに買い物に行くだけですわ。後藤さんこそ、最近お目にかからなかったけれど、何してらしたの?」
「僕ですか?仕事ですよ。イチに仕事ニに仕事ですからね」
「まあ、大学の先生って大変なんですねえ」と、明美は同情するように言った。
「いや、お宅のご主人ほどではありませんよ」
明美さんの夫はやり手の商社マンで出張で家を留守にすることが多いらしく、僕は今まで明美さんの夫に会ったことがない。
「今度子供たちと一緒に、どこかピクニックに行きませんこと?」
明美さんが媚びるように言う。
「いいですね。今度家内、いや元家内と話し合って決めてください」と言うと、明美はプット吹き出し、
「聡子さんは元家内なんですか?面白い表現をされるのね」と言う。
「うーん。元女房とか元ワイフとか言ったほうがいいのかなあ」と僕は明美さんのコメントを聞いて、どの表現が一番ぴったり来るか考えて、頭をかしげた。
「まあ、後藤さんは言語学がご専門だそうだから、表現の仕方一つでも気になさるのね」と感心したように言った。
「いえ、それほどでもありませんよ。では、失礼」と僕はこれ以上明美さんにつき合わされると困ると思い、彼女から逃れるように言って、車に戻った。きっと明美さんは夫が不在気味で退屈しているのだろう。バツイチでフリーな僕は、その明美さんのかっこうの遊び相手として狙われているような気がしてならない。
 僕は明美さんの女の媚を秘めたようなねっとりした目から逃れた後、うちに帰ってアパートの部屋に掃除機をかけていると、電話が鳴った。弘の担任の木村先生からだった。
「ああ、木村先生、弘がいつもお世話になっています。弘が何かしでかしたのでしょうか」と言うと、せわしそうな木村の声が返ってきた。
「弘君、髪に毛じらみがたくさんくっついていて、これでは他の子にもうつってしまいますから、迎えに来てください」
「え、毛じらみ?」
「ええ。弘君は職員室に連れてきていますから、すぐに職員室にお迎えお願いしますね。では、2時限目が始まりますから、私は失礼します」と言うと電話がガチャンと切れた。説明が余りにも簡単で、僕は木村先生のぶっきらぼうとも取れる電話にあっけに取られ、電話のプープーと言う切れた音がする受話器をしばらく眺めていた。
 日本で戦後によく子供たちが毛じらみをつけていたのでDDTをまいたなんて話を親から聞いたことがあるが、この文明社会で毛じらみなどというものが存在していたというのは、僕にとって初耳だった。うちの子は毎日シャワーを浴びさせているはずだし、どうしてそんな不潔な物がうちの子の頭に住みついたんだろうと思うと不思議でならない。弘を迎えに行くと、弘は職員室で一人ぽつんと椅子に座って待っていた。先生たちは皆授業にでかけているらしく、事務の内藤さんがいるだけだった。弘は僕を見ると、すぐに「パパ!」と言って飛びついてきた。心細かったのだろう。
「どうしたんだ。ちょっと頭を見せろ」と弘の髪の毛に目を近づけてジーッと見ると、小さい白い粉のようなものがたくさんついている。払い落とそうとして、髪の毛をかき混ぜるようにくしゃくしゃにしても、落ちない。
「この小さい粉のようなものは何なんだ?」と言うと、弘は半泣きになって
「毛じらみの卵なんだって。先生が、薬局に行って毛じらみ退治用のシャンプーを買って、髪を洗えって言っていたよ」
「どこで、こんなものがついたんだ?」
「現地校のクラスで、はやっているんだよ。僕きのう、ジムと遊んだんだけど、ジムは毛じらみがついているっていうので、先生に早退させられたよ」
「何だってそんな奴と遊ぶんだよ。馬鹿!」と言うと、弘は泣き出した。ちょっと言い過ぎたかなと僕は反省して
「まあ、薬局に行って薬を買って、ママのところに帰ろう」と言うと
「ママ、今日はお出かけで夕方まで帰ってこないって言っていたよ」と言う。
「お出かけ?パパにはそんなこと言っていなかったぞ」
「ママね、ボーイフレンドができたんだよ。だから、そのボーイフレンドと出かけたんだよ」
僕は弘の言葉にびっくりして、「なに、ボーイフレンド。けしからん」と思ったが、よく考えたら、聡子はもう離婚した相手で、赤の他人である。聡子にボーイフレンドができようができまいが自分の知ったことではないはずなのに、嫉妬心が湧き起こってくる。これはどうやら聡子を他の男に取られることに対する嫉妬心ではなく、自分より先に相手を見つけたことに対する嫉妬のようである。

(「そういえば、その頃は私はオーストラリア人のスティーブとつきあっていたわね」と聡子はその頃のことを思い出し、ため息をついた。残念ながら、スティーブとの仲は長くは続かなかった。スティーブが話しかけても子供たちは二人とも上目遣いにスティーブを見るだけで、口をきこうともしないものだから、スティーブから、君は好きだけど、子供たちと仲良くやっていく自信がないって言われて、とうとう別れるはめになったのだ。)

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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