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ハンギングロック:後藤の失踪(11)

1月25日
 今日はヘンダーソン教授と2時から会うことになっている。気が重い。僕は確かに研究実績はあまりないかもしれないが、翻訳などの内職をして大学の資金稼ぎに貢献していると自負している。でも最近の大学は研究の成果のみを追求する傾向にあり、僕の貢献も余り感謝されないように思われ、疎外感を感じることが多い。年に一回あるヘンダーソン教授との勤務評価のための面接では「もっと研究に力をいれんかね」と言う言葉を聞かされるのがいつの間にか年中行事になってしまった。また今日も同じことが言われるんだろうなと思うと憂鬱になる。
 「今年の目標」「去年の実績」などを書いた書類を持って学科長の研究室の前で待っていると、秘書が「どうぞ」と中に入れてくれた。
 中に入るとヘンダーソン教授が
「やあ、日本語プログラムの人は皆時間厳守だな」と珍しく機嫌よさそうに僕に笑いかけた。
「先日読んだ論文によるとね、世界の7箇所で広場などにある公共の時計の正確さを調べたら、東京の時計が一番正確で、一番不正確だったのはインドネシアのジャカルタの時計だったそうだ。確かにインドネシアプログラムの連中は約束の時間に平気で10分くらいは遅れてくるよ。時間の観念は文化によって随分違っているようだね」
「そうですか。それは、面白いですね。僕達は子供のころからいつも約束の時間より早めに行けと言われて育っていますからね」
「そうか」
それから、ヘンダーソン教授に言われたことは胸糞が悪くなるので、これ以上書くのはやめておこう。


2月10日
 僕の担当する中級の日本語のクラスは一人では教えきれないので、毎年小池理恵と言う、オーストラリア人と結婚して、メルボルンに在住している40代の女性にパートを頼んでいる。今日、小池さんが授業の打ち合わせに来た。きれいな英語を話し、はきはきした小池は学生の間で人気がある。
「後藤先生、今年もいつもと同じように教えればいいんですね。何か去年と内容の変わったところありますか?」と僕の前の椅子に座るなり、聞いてきた。
「今年の作文は、『ハンギング・ロックでのピクニック』という題で書かせようかと思っています」
小池さんには、『ハンギング・ロックでのピクニック』というのは初耳のようだった。
「ハンギング・ロックと言うと、あのマセドン山の近くにある?」
「そうです。そこで起こった少女3人と女教師一人の失踪事件を扱った小説があるのですが、その謎解きを学生にやらせてみようかと思うんです」
小池さんの顔がぱっと輝き
「ミステリーですか?面白そうですね。そのお話どんなお話なんですか?」
「まあ、フィクションなんですけれどね。簡単に言うと、1900年のバレンタインデーに私立のお嬢さん学校で生徒たちをハンギング・ロックにピクニックに連れて行ったのが事の始まりで、4人の生徒が探索に出かけると言って一行から離れたのですが、そのうちの一人の生徒がヒステリック状態になって帰ってきて、他の三人が岩の間に入っていき、消えてしまったというのです。そして他にも生徒の引率をしていた二人の女教師のうちの一人がいつの間にかいなくなってしまっていたんです。それから懸命の捜索が始まったのですが、見つからず、一週間後に一人の生徒が意識不明の状態で発見されたのです。医者の診断ではその生徒は頭を強く打ち、記憶喪失になってしまっていた。容疑者として、同じ頃ハンギング・ロックに来ていたイギリス人の若い貴族と彼のオーストラリア人の従僕が挙がったのですが、彼らが犯人だとの証拠も得られないまま、迷宮入りしてしまったというお話です」
「そうですか」
僕は刷り上ったテキストを小池さんに渡しながら、
「あらすじはここに書いてありますから、目を通しておいてください。これを学生に読ませて、行方不明の3人はどうなったかを想像させて、書かせようと思っています」
小池さんはテキストを手にするや否や、すぐにぺらぺらめくって、ハンギング・ロックの話の出てくるページを探し当てた。
「これですね?」
「そうです。オーストラリア人の学生とアジア人の学生を一組にしてプロジェクトとして書かせようと思っています」
「それ、大丈夫でしょうか?」
小池さんは何か反対意見をいう時小首をかしげる癖があるが、その時も小首を傾げながら言った。
「どうしてですか?」
「チームプロジェクトとして提出したものを評価するというのは、二人の息が合えばいいですけど、どちらかが怠け者だったりすると、一生懸命やった学生から文句が出るのではありませんか?」
「まあ、文句を言う奴もいるかもしれませんが、共同作業というのは、社会に入ってはよくあることですから、今から訓練するのも大切なんですよ」
「そういわれれば、そうかもしれませんが」
「それにね、オーストラリア人の学生と留学生は別々に座るっていう傾向がありますよね」
「ええ、確かにそうですね」
「だから、このプロジェクトがオーストラリア人の学生とアジア人との学生との垣根を取り払う役目をしてくれればいいなと、僕は考えているのですが」
「はい。先生のおっしゃること、よく分かりました」
小池さんはそう言うと、テキストを自分の持ってきたかばんにしまった。
「それじゃあ、この契約書にサインをして、経理の担当のほうに持っていってください」と、小池さんに契約書や雇用条件の紙を渡すと、小池さんを部屋から送り出した。これで、新学期の準備は完了した。後はどんな学生たちが上級クラスにはいってくるかと思うと楽しみだ。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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