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ハンギングロック:後藤の失踪(19)

その翌日、狩野は初めてハンギング・ロックに行ってみた。
狩野の家から車で1時間半。ハンギング・ロックの近くまでハイウエーが通っており、制限時速が120キロなので、120キロで飛ばした。駐車場に車を停めると、まだ後藤の車があるかなと駐車場を見回したが、もう警察によってどこかに運ばれたようで、後藤の白いカローラは見当たらなかった。日曜日だが、冬の肌寒い日で曇り空なためか、狩野の車以外に2台しか車が停まっていなかった。駐車場からすぐにカフェが見えたので、そちらに足を運んだ。まだ昼ごはんには早いせいか、カフェには人影もなく、カウンターで40歳ぐらいの女が暇そうにしていた。
 狩野がテーブルに座ると、カウンターで暇そうにしていた女がメモ帳片手に注文を取りに来た。カプチノを注文して、聞いてみた。
「この間、ハンギング・ロックで失踪した人がいたようですね」
「あら、どうして知っているんですか?ああ、そういえば、新聞に載っていましたね」
後藤の失踪は小さく新聞の片隅に報道されていた。
「その失踪した人の知り合いなんですが、何かそのことについて知っていますか?」
「まあ、そうなんですか。実は私が警察に通報したんですよ。白いカローラが2日も駐車場に停まったままになっていましたからね」
「そうなんですか。その人、一人で来たんでしょうか?」
「さあ、あの日は観光客も多かったから…。警察からも写真を見せられたけど、全然気がつかなかったわ。だから、一人で来たのかも、いつ来たのかも、さっぱり分からないんですよ」
「そうですか、ありがとう」と言うと、その女、ジェーンはコーヒーを作りにカウンターの奥に引っ込んだ。
 狩野はもう警察で捜査済みだろうから、今更何か新しい手がかりになるようなものが出てくるとは期待してはいなかったが、後藤がいなくなったハンギング・ロックを一度見てみたかった。
 カプチノを飲み終わると、カフェの向かい側にある小さな博物館を覗いてみた。そこにはハンギング・ロックの成り立ちが詳しく説明してあり、その奥には「ハンギング・ロックでのピクニック」の映画の紹介が大きく書かれていた。小さな空間を最大限に生かすためか、カタツムリの殻のようにらせん状になった壁に情報を書いたポスターが貼ってあった。
 そこを出るとすぐに登山口になっていた。
「かなり急な道ですから、病気持ちの方は登山をご遠慮ください」と書かれている。
パンフレットには頂上までの高さが105メートルとあったが、木々の間から見える岩は見上げるように高かった。
 登り始めるとすぐに二つの道に分かれていた。一つは遠回りにはなるが傾斜の緩やかな坂で、もう一つは急な階段を上っていくようになっていた。狩野は急な階段の方を選んだ。階段を登っていくのはつらかったが、登るとすぐに頭上に大きな平たい岩が天井のようにのっかっているのが見えた。その岩は両側の岩で支えられていて、まるで何かの入り口のように見える。そこに『ハンギング・ロック』と名札がついていたので、「ああ、これがハンギング・ロック、地名の由来になった吊られた岩なのね」と狩野は納得した。ハンギング・ロックをくぐって出たところは、緩やかな坂道と合流地点になっており、そこからは、ゆるやかな坂道になった。それまでの石段とは違って、砂道を丸太で滑り止めをしているような階段が頂上まで続いていた。両側には岩が突き出ていて、麓は見えなかった。岩のところどころに穴が空いていて、そこから麓の景色が額縁の絵のように見えた。頂上に辿り着くと360度の景色が開けて見えた。大きな山が一つ見える以外は平原で、限りなく緑の潅木が広がっている雄大な風景だった。景色を楽しむには風がビュービュー吹きつけ、長くは立っていられなかった。小雨が降り始めたので、狩野は慌てて岩陰に身を寄せたが、狩野の後にも先にも人が上ってくる形跡がなく、突然一人でハンギング・ロックの頂上に立っているのに気が付くと、心細くなってきた。雨脚は段々激しくなり、遠くで雷がとどろく音がした。昼間なのに薄暗くなり、不気味さが漂い始めた。後藤がこんな所で一晩過ごすとは思えなかった。やっぱり、何らかの理由で殺されて、死体は別の場所に隠されたのだろうと思うと、ぶるぶる体が震えてきた。20分も岩陰にいただろうか。雨が段々弱くなり、少しずつ明るくなってきた。それから10分も立つと、雨が上がった。狩野は、雨がやむとすぐに坂を下り始めた。下りは砂道が雨に濡れて泥道になっていて、すべり転げないようにすることに神経を集中させなければいけなかった。降りたところでまたカフェに戻った。カフェには2,3人客がいた。
 朝話したカフェの女、ジェーンは狩野を見ると、「何か分かりましたか?」と声をかけてきた。
「いいえ」
「それは、残念でしたね。早く、その方、みつかればいいですね」
ジェーンは気の毒そうに言った。
 お昼ごはんにミートパイと紅茶を注文したが、せっかく遠くまで来たのに、そのまま帰るのは惜しいように思われた。カフェにおいてあるパンフレットを手にとって見ると、山の麓を30分で一回りできると書かれていた。カフェを出た後は、山の麓を一回りすることにした。麓は人が通れるように小道があったが、小道の回りは潅木で、枯れた大木が道の脇に転がっていた。何か黒っぽいものが道の脇から出ていた。よく見るとハリネズミだった。ハリネズミは、狩野を恐れる風もなく、ゆうゆうと狩野の前を横切って行った。歩きながら、こんな草原にでも死体が埋められたら、分からないだろうなと想像した。ゆっくり歩いたが、パンフレットに書いてあった通り、駐車場に戻るには30分もかからなかった。
結局、狩野は何の収穫もなく、ハンギング・ロックを後にした。

著作権所有者:久保田満里子

 

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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