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ハンギングロック:後藤の失踪(20)

  後藤が失踪してから5年の月日が流れた。
 5年の間に色々な変化があった。後藤の息子の弘は高校生になり、祐一は中学生になっていた。後藤の失踪後、今までやんちゃ息子だった二人が口数の少ない子に変わってしまった。聡子が弘の同級生のカイリーの父親と再婚すると、ますます二人の顔から笑顔が消えてしまった。父親が消息不明になったことだけでもショックだったのに、今まで二人だけのお母さんだと思っていた聡子を他人と共有しなければいけなくなったのは、二人にとって面白くなかったのだろう。聡子自身は今はカイリーも含めた3人の子供たちの世話に明け暮れていた。一方、狩野は、大学から5年の契約が切れたところで、準教授として任命され終身雇用となり、今ではメンジーズ大学で、押しも押されぬ中堅の日本語教師となっていた。
 2月にはいって、狩野はモニークに、モニークの友人が持っているという別荘に行こうと誘われた。1年前からモニークと一緒に、日本語学習者の学習の動機とフランス語学習者の動機とを比較する共同研究を始め、親しくなっていたのだ。モニークも独身なので、独り者の狩野は誘いやすかったようだ。メルボルンは、その前の週は、40度を越す猛暑が3日も続き、皆その暑さに参っていた。メルボルンでは40度を越す日もあるが、通常1日だけですぐにクールチェンジが来て20度台に気温が下がる。3日も熱風に見舞われたのは、初めてのことだった。地球温暖化の影響だとマスコミは騒ぎ立てた。その熱波が去って、また25度前後の涼しい日が戻っていたが、狩野が誘われた土曜日も、また気温が44度になるということだった。用のない人は外出しないようにと消防署から呼びかけがあったが、車で出かけるのでクーラーさえつければ暑さはしのげると、モニークと軽口をたたきながら出かけた。狩野はモニークの運転する車に初めて乗ったのだが、モニークは普段は人を罵倒することなどない人なのだが、車を運転し始めると人が変わったように短気になり、前の車がのろのろ運転しているとすぐに追い越そうとする。1車線しかない道で前の車を追い越そうとして右車線に入ったとたん対向車が目に入った時は、狩野はヒヤッとした。幸運にも、対向車とすれ違う時までにはまた左車線に戻ったので、衝突しなくて済んだのだが、このときばかりは狩野は自分の車で来なかったことを後悔した。途中から舗装されていない山道に入り、道の両側は高い木々に取り囲まれ、人家が見えないところに入った。それから10分ほどして目的の別荘に着いた。車を降りたとたん熱風に襲われ、一瞬のうちに汗がどっと出て、それがすぐに乾燥した空気で吸い上げられていくのを感じた。二人とも慌てて、ロビンのうちに駆け込んだ。ドアの前に立つとすぐにドアが開けられドアの向こう側には車の音を聞いて待ち構えていたモニークの友人のロビンと彼女の夫のアレックスが立っていた。モニークはロビンとアレックスと抱き合って、両頬にキスをして挨拶をしたあと、ロビン夫妻に狩野を紹介してくれた。
「こちら、ヨーコ。日本語を教えている同僚。こちらロビンとアレックス。ロビンとは大学院が一緒だったの」
「はじめまして。モニークと大学院が同じだったということは、フランス語がおできになるんですね」
「ええ。フランス語は簡単だからね。日本語は難しいって聞くけど、ほんとう?」
「そんなことないですよ。読み書きは英語話者には難しいかもしれませんが、話すのは、簡単ですよ。英語ほど音のバラエティーがないから」
そんな会話を交わした後は、ロビンが家の中を案内してくれた。大きな2階建ての家は応接間が吹き抜けになっていた。上を見上げると、天井には大きな木の梁がめぐらされて屋根裏が見えた。まだ出来て間もないらしく、木のいい香りが漂った。
「ここを使って」と言って案内されたベッドルームにはシングルベットが二つあった。モニークと二人で泊まれるように準備していてくれたらしく、それぞれのベッドの上にはきれいに折りたたんだバスタオルが置かれていた。
「ここがトイレ」「ここが、浴室」「ここが洗濯場」と案内されたところはまだみな新しく、清潔な感じがした。
 暑い日なので、カーテンは締め切られていて、家の中は少し薄暗かったが、窓がたくさんある家で、いつもは太陽の光が一杯に入って、明るい家なのだろうと狩野にも容易に想像できた。
 狩野達は本当はその日は色んな観光巡りをしたかったのだが、余りにも暑いので、結局家の中で、皆とおしゃべりをして過ごした。
 その会話の中でロビンは高校のフランス語の教師、アレックスは高校の数学の教師だと分かった。二人は田舎の生活にあこがれていたので、山中にある別荘を買い、週末はたいていここに来て過ごすということだった。四人とも明日は最高気温が28度に下がるというので、明日になったら山の中の探索に出かけようと話した。
それは、ロビンとモニーク、そして狩野も手伝って作った夕食をすませた後だった。ゴーッとジェット機が10機くらいも飛んでいるような音がし始め、その音が段々大きくなってくるのに、皆気が付いた。地の底から湧きあがってくるような不気味な音だった。アレックスが窓のカーテンを開けてみると、10キロ先の森が大きな炎に包まれ、10メートル以上はあると思われる炎の壁を作ってこちらに凄まじいスピードで迫って来ているのが見えた。4人はショックで身動きも出来ず唖然とした。その時ドアをノックする音がした。
著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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