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ハンギングロック:後藤失踪(21)

我に返ったアレックスが開けると、緊張した顔の警官が二人立っていた。

「すぐに、避難してください。山火事が迫っていますよ」

4人はお互いの顔を一瞬見合わせたが、すぐにハンドバックなど貴重品を手にすると車に飛び乗った。アレックスの車が警官が運転するパトカーの後につき、モニークの車がその後を追った。夏の夜の7時過ぎはまだ明るいはずなのに、黒い煙に覆われて真っ暗だった。車の窓を閉めていても、煙が入ってきて、きなくさい匂いが車の中を漂った。アレックスの車のテールランプを見逃さないように後について運転するモニークの顔は緊張で引きつっていた。視界が悪い上、ゴーッという音が段々近づいて来る。火が段々自分たちに迫っているのだが、その火がどこから迫っているのか見当がつかない。狩野の目は前に見えるテールランプに吸い寄せられ、手は固く握りしめられていた。その手が汗でにじんでいるのをその時は緊張の余り気が付かなかった。モニークが一言小さな声で言った。「燃える木が道路に倒れて、通行止めになっていなけれいなければいいんだけど」その言葉を聞いたとたん、狩野はパニック状態に陥った。燃え落ちた大木が道路に倒れて、ゆく手を遮っているのを想像したのだ。こんな所で車から放り出されてしまうと、あの巨大な炎に飲み込まれて、一瞬のうちに、私の体は灰と化してしまうだろう。焼け死ぬ苦痛を想像すると、思わず「神様、助けてください」と心の中で祈っていた。

それは何十分かかったのか、分からない。段々あの不気味な音が遠ざかり、煙も薄れて明るい空が見えてきたとき、「たすかった!」と狩野は思わず言った。そして、神に感謝した。

パトカーが誘導して連れて行ってくれた所は近くの町の中心街の側にある広場だった。中心街と言っても一本の道路の両側に50メートルくらい小さなスーパーやパブが並んでいるだけのところである。そこはいつもは観光客と近くの村の人が集まるくらいの静かなところだろうが、その日は近辺から避難してきた人たちでごったがえしていた。道端に放心状態となって座り込んでいる人。半狂乱になって家族の行方を捜している人。消防員、警官。みんな血走った目をしていた。狩野は動揺する心を抑えて車を降りると、モニーク達と共に警官に誘導されて広場のほうに行った。広場には俄仕立てのテントがはられているところだった。

警官がまだ仕事が残っているからと言って立ち去った後、狩野たちは毛布と紅茶を手渡されテントを割り当てられた。その晩はテントで一泊することになった。紅茶を飲んで気を取り直したとき初めてモニークが口を開けた。

「大変なことになったわね。こんな火災になるなんて思いもしなかったわ」

「ごめんね。こんなことになることが分かっていたら、あなたを誘わなかったのに。実はきのう消防署の人の主催する火災に備えるための集会が開かれたのよ」ロビンはそういいながら昨日の集会のことを思い出した。

黄色い消防服を着た消防署員が、不安そうな顔をしている住民を前にして、言ったものだ。

「明日は44度で北風が強いと予報が出ています。皆さんもご存知のように、先週は3日も40度を越える日が続いている上に、雨が2ヶ月も降っていません。今潅木は枯れ、大地は乾ききっていて、火がつけばすぐに燃え上がる危険な状態になっています。火事に備えられないと思う人は早めに避難してください。家を守りたい人は、庭の枯れ木は取り除き、家の周りの燃えやすい木は切り倒し、家の屋根や壁を水浸しにしてください。ともかくラジオの情報に注意を払ってください」

ロビンたちは、そんな消防署員の警告を真剣には受け止めなかったのを後悔していた。

一体どこで火事が起こり、どこまで広がっているのかの情報が入らないまま、狩野たちはその晩は不安な一夜を明かした。

その火災の被害の状況が翌日になってだんだん分かってきた。昨日の気温は46.4度。記録的な暑さだったのだ。死者は少なくとも100名はいるということだった。全壊した家は2000軒以上。ほとんどの死者は灰と化してしまっていて、DNAでの身元確認もままならない状態だという。逃げる途中黒い煙に巻かれて視界が遮られ、対向車にぶつかり、その後ろをまた他の車に追突され、何台もの車が玉突きになり、その車が炎に巻き込まれ、灰と化した人々もいたということだ。その人たちが事故で死んでいたのならともかく、車を出られない状態で焼き殺されたのかと思うと、狩野はぞっとした。パブのテレビに映し出された車はまるで爆弾でも落とされたように、窓は溶け、中もただれきって、椅子もハンドルもギアも全部溶けてなくなっていた。中には車にまでたどり着く暇もなく、家が炎の壁に包まれて燃え上がり、家の中で人間の姿も残さず灰となった人々も多くいたそうだ。そういう情報を見ていて、狩野は「自分たちはなんてラッキーだったのだろう。あの警官たちが誘導してくれなかったら、自分たちも、死者の数にいれられていたに違いない。それに、私たちには帰る家がある。ロビンにしても別荘なので、全部の財産をなくしたわけではなかったのが、幸いだった」と自分の幸運を感じたが、犠牲者のことを考えると心から喜ぶ気持ちにはなれなかった。

ロビンたちは、自分たちの別荘がどうなったかを見に行きたがったが、道は通行止めになり、住民たちもそこに戻ることは許されなかった。放火の可能性もあり、火災の原因が突き止められるまでは犯行現場として取り扱うので、火事の焼け跡を乱してもらっては困るということだった。仕方なくロビンたちもメルボルンに戻ることにした。その田舎町でロビンと別れた後、狩野たちはメルボルンに向かったが、帰る道中、二人ともそれぞれの思いに沈んで、寡黙になった。帰りの道中でモニークが一度も車を追い越そうとしなかったのが、いかにモニークが火災のショックから立ち直れないでいるかを物語っていた。狩野はその日自分のアパートに戻った時はぐったりして、その翌朝のお昼過ぎまでぐっすり眠った。

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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