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ヒーラー(2)

私の慰めの言葉も余り効果がなく、その日を境にジョンはウツウツした顔で検査の日までの一週間を過ごした。朝のジョギングも控え、会社から帰るとすぐに居間のソファーに横たわり、見ているのかどうかわからないうつろな目でテレビを眺めていた。食も極めて細くなり、一口食べたかと思うと胃が痛むらしく、おなかを押さえて、フォークとナイフを置いた。そういうジョンを見ていると、心が痛んだ。

水曜日の朝、病院で言われたとおりジョンは朝ごはんを食べず、私が運転する車の助手席に座って、指定された病院に行った。車の中のジョンはじっと前方を見て、何も言わなかった。私もジョンにどう言っていいか分からず、車の中に重苦しい沈黙が流れた。朝8時に出たのだが、ちょうどラッシュアワーにひっかかり、普通は30分もあればいけるのに、病院についた時は8時50分にもなっていた。

病院の受付で、渡された書類に生年月日や保険の情報を記入し、病歴とアレルギーはないかを調べるための問診表に答えて受付に返し、待合室で名前を呼ばれるまで待った。待合室には、娘に付き添われている老人や、夫に付き添われている若い女性など、多くの人が皆一様に不安そうな面持ちで名前が呼ばれるまで静かに待っていた。ジョンが看護師に呼ばれて連れて行かれた時は9時半になっていた。

それから、一時間ぐらいたって、ジョンが麻酔をかけられてまだふらふらして看護師に支えながら、戻ってきた。

「どうだった?」ときくと、

「後で、お医者さんが結果について、話したいと言っていたよ」と言った。

不安そうなジョンの手を握って、私は「大丈夫よ」と言ったが、実はジョンの不安がそのまま伝わってきて、その時私の心にも不安の暗雲が広がっていた。何も悪いところがなければ、すぐに言ってくれそうなものである。それから、医者に呼ばれるまでの15分間は、随分長く感じられた。

医者に呼ばれて、ジョンと一緒に診察室の椅子に座ると、若い医者は深刻そうな顔をして言った。

「胃癌ですね」

余りにも単刀直入に言われて、ショックが強かった。

ジョンは「やはり…」とつぶやいたが、私は

「胃癌と言っても、どの程度の進行状態ですか?」と聞いた。

医者は内視鏡で撮った胃の中を見せながら、

「かなり進行していて、胃の四分の一はやられていますね」と言った。

ジョンはショックの余り頭が空白になっているようだった。黙って写真に見入っているジョンに代わって、私は聞いた。

「胃の四分の一がやられているとなると、どんな治療法があるのでしょうか?」

「まず、癌細胞を切り取って、化学療法や放射線療法をやることが考えられます。それもできるだけ早くするほうがいいですね。今日は胃だけ検査したので分かりませんが、他に転移している可能性もありますから、その検査も必要ですね」

「そうですか」

医者は明日から入院するように言った。私たちは病院を出て、一旦うちに帰った。入院するための準備をするためだ。

ジョンは癌と聞いてからは、もう動き回る気力もなくしたようで、うちに帰ったらすぐにベッドに潜り込んだ。

私は、ジョンのために何をしたらいいのか分からず、落ち着かない気持ちだった。何かジョンのためにできることはないかと思案しているうちに、あることを思いついた。そして、ジョンに笑い飛ばされるだろうとは思ったが、寝ているジョンの背中に向かって言ってみた。

「ねえ、お祈りしてあげようか?」

背中を向けたままジョンは

「お祈りか。もう神にでも何にでもすがりつきたい気持ちだから、何でもやってみてくれ。奇跡が起こればもうけもんだからな」とふてくされたように言った。

「でもね、祈ると言っても、祈りを受けるあなたが信じてくれなきゃ、効果ないと思うわ。信じる?」と言うと、顔だけこちらに向けてジョンは「うん。信じる」と真面目顔で言った。いつもは非科学的だとか何とか言って、祈りの力を馬鹿にしていたジョンがえらく素直に言うので、ジョンの反応を心配した私のほうが拍子抜けした。

「仰向けに寝て」と、ジョンを仰向けにねさせ、私はジョンの胃の上に手をかざして、祈り始めた。ただただ「ジョンが元気になりますように」と頭の中で繰り返した。それ以外のことは何も考えなかった。私は仏教徒でもキリスト教徒でもなく、祈ると言っても、特定の祈る神も仏もいなかった。私は、口の中で「ジョンが元気になりますように」と言うと同時に、ジョンが元気になった姿を頭に描いた。そうしているうちに何だか掌が電流にでも触れたように、ぴりぴりし始めた。そしてその電流がジョンの胃に向かって発せられるように思われた。今まで経験したこともないような不思議な感覚だった。じっと手をかざしてどのくらい経ったのか分からないが、ジョンの寝息が聞こえ始めた。ジョンが一時的ながら癌の恐怖から解放されたのは確かだった。私は自分の祈りが全くの無駄でなかったのを見て安心した。祈ることを思いついたのは、頭が痛くなると、時折「痛みがとれる。痛みがとれる」と言いながら手を頭に当てると、不思議と頭の痛みが引いていくように思われたからだ。私はジョンを眠らせたまま、入院に必要だと思われる下着類や洗面用具を準備し、ボストンバッグに詰め込んだ。その作業が終わるとまたジョンの傍らに行ったが、ジョンは眠り続けていた。私は彼の側に黙って座り、ひたすら祈り続けた。その晩、一時目を覚ましたジョンの顔は、昼間の恐怖に引きつった顔から、いつもの穏やかな顔に変わっていた。

「今まで胃がしくしくしていたのが、痛みが全然なくなったよ。不思議だな」と私の方を微笑みながら見た。

「祈りの効果がでたのね」と私が言うと、いつもは鼻で笑うジョンが

「そうだね」と素直に言った。

「今晩、祈り続けてあげるからね」

「ありがとう。そうしてくれれば、癌だって消えるかもしれないな」ジョンは力なく微笑みながら言った。

「そうなればいいね。ともかく、あなたの胃の痛みがとれただけでもよかったわ」

私は、その晩約束どおり、祈り続けた。時折眠気に襲われた。その度にハッと気がついて前かがみになってしまった姿勢を正して、またジョンの胃の上に手をかざし、祈り続けた。

 

著作権所有者:久保田満里子

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プロフィール

2008年よりメルボルンを舞台にした小説の執筆を始める。2009年7月よりヴィクトリア日本クラブのニュースレターにも短編を発表している。 2012年3月「短編小説集 オーストラリア メルボルン発」をブイツーソリューション、星雲社より出版。amazon.co.jpで、好評発売中。

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